アーカイブ3・絵と対話した詩人たち(2019年4月〜)

*2019年5月

古賀春江の詩の海(1)
                                河津聖恵

昨年六月、所用で福岡に行った帰りに久留米市に立ち寄り、「寺町」とよばれる、たくさんのお寺が集まった通りを、門前の立て札に記された名を確かめながら、ぶらぶらと歩いていました。

戦前に活躍した前衛画家、古賀春江の生家である善福寺を探していたのです。

その頃戦前の日本のシュールレアリスムの詩について詳しく知るためにいくつかの関連書に目を通していくうち、戦前を代表するシュールレアリスムの画家の一人である古賀春江が詩を書いていたことを知り、ちょっと興味を掻き立てられていたのです。

そもそも古賀春江については、殆ど何も知りませんでした。記憶を辿ってみると、1988年に兵庫県立近代美術館で行われた「1920年代日本展」において初めて古賀の代表作といわれる「春」や「窓外の化粧」を見て、その不思議な構図と色彩、そして独特の雰囲気にただならぬ何かを感じたことはよく覚えています。しかしその後、この画家についてとくに知ろうともせず、「海」の魚たちが泳ぐ謎めいた暗緑色の海や「窓外の化粧」の真っ青な空を背景にビルの上で踊る不思議な女性のスカートの膨らみなどを記憶の奥に放置したまま、長い歳月がたちました。

そしてほぼ30年後、遥かな時を越えて再びその海は私に謎をかけに来たようなのです。



30年後、私は古賀春江に再び謎をかけられることになりました。ここ最近、戦前のモダニズムやシュルレアリスムに関する詩論集がいくつか刊行され、目に付いたということもありますが、昨年1月にパリに行ってエリュアールの生地を歩いたりしたことをきっかけに、仏シュルレアリスムについてあらためて色々見聞したことが大きかったと思います。そしてその過程で、仏シュルレアリスムに影響を受けつつ、独特の陰翳を持って展開した日本のシュルレアリスムについて知っていきました。さらに日本のシュルレアリスムにおいても、詩が大きな役割を果たしていたということがよく分かったのです。とりわけ古賀春江は、たくさんの詩を残し、詩から着想して絵を描いたと言ってもいい画家だったというのは予想外の事実でした。そしてそのことからも私はこの画家に惹きつけられていきました。

「古賀の場合、詩想を練ることがすなわち、彼のデッサンだったかも知れない。古川智次のいうように、「古賀春江は詩才を有力な資本とした」画家であった。(改行)古賀春江が詩想を意欲的に絵画のモチーフとしたのは、ポール・クレーに触発されたいわゆるクレー風の時代以降である。文字の代りに絵の形式で詩を描くといった竹久夢二の画魂につながるものがある。」(中野嘉一『古賀春江  芸術と病理』)

 冒頭に「詩想を練ることがすなわち、彼のデッサンだったかも知れない」とあります。そこには「古賀の絵はデッサンが弱い」という指摘が当時あったことと対をなしているようです。古賀のデッサン力不足という評価は、私には意外でした。デッサン重視の写実の時代だったから厳しい評価が下されたのでしょうか。私などには大変絵の上手い画家という印象があったのですがー。ただ「春」や「窓外の化粧」は、確かに全体像としては平面や立体が入り混じっているということもあって、不安定な印象は受けます。でもそこがシュールレアスムたる所以でもあって、当時の美術界にはまだ理解が及ばなかったのかも知れません。

その「不安定さ」「シュールレアスムっぽさ」(日本の土俗性や野暮ったさの味のあるシュールレアスムとでもいえるでしょうか)に、出会いから30年後、私はあらためてこの画家の「詩と絵の対話」を探っていきたいと思っています。私自身の感受性の変化もきっとあるはずで、私はようやく1920年代から30年代に活躍した古賀春江に追いついたということかも知れません。

本コーナー「絵と対話した詩人」では、これを含め何回かの連載として、古賀春江における詩と絵の関係を追って行きたいと思います。冒頭で述べた久留米市での生家探訪についても、やがて綴りたいと考えます。

それでは今回は最後に、「海」が発表された2年後の1931年に刊行された『古賀春江画集』の中で、古賀春江自身が付した「海」の「解題詩」全文をご紹介して、次回の予告とさせていただきます。

透明なる鋭い水色。藍。紫。
見透される現実。陸地は海の中にある。
辷る物体。海水。潜水艦。帆前船。
北緯五十度。

海水衣の女。物の凡てを海の魚族に繋ぐもの。
萌える新しい匂ひの海藻。

独逸最新式潜水艦の鋼鉄製室の中で、艦長は鳩のやうな鳥を愛したかも知れない。
聴音器に突きあたる直線的な音。

モーターは廻る。廻る。
起重機の風の中の顔。
魚等は彼等の進路を図るー彼等は空虚の距離を充塡するだらうー
双眼鏡を取り給へ。地球はぐるつと回つて全景を見透される。

*2019年4月

「清田政信の「黒」」
                                   河津聖恵

  「戦後沖縄文学のレジェンド」とも言われる清田政信は、1937年久米島に生まれた。50年代半ば琉球大学在学中から詩を書き始め、80年代始めまで沖縄の詩人の中で最も精力的に詩と評論を発表し、8冊の詩集、3冊の批評集を出している。だが80年代後半病を得て書くことをやめ、今も療養を続けている。本土はもとより沖縄でも知る人は次第に少なくなった。
  だが昨年八月、三十四年ぶりの著書『渚に立つー沖縄・私領域からの衝迫』(共和国)が出た。沖縄の風土と、現代詩を書く自己との葛藤を、詩的な言葉で考察する特異な論集だ。清田の「復活」には、若い世代の読者が増え始めたという背景がある。沖縄では「清田政信研究会」も立ち上がったらしい。
   清田は美術批評も書いた。『情念の力学ー沖縄の詩  情況/絵画』(新星図書出版、1980)には、当時の沖縄の画家をめぐるアクチュアルな論が収められる。清田の絵画論はほぼ詩論であると言ってもいい。メタファー、イメージ、そしてそれらの源としてのヴィジョンといった視覚的(幻視覚的)な要素が多いこの詩人は、絵画に並々ならぬ関心を持っていた。『情念の力学』では沖縄の絵画を論じていて、本土と同じ戦後が存在しない沖縄の「空虚」を凝視する必要性をうったえている。さらにその「空虚の凝視」は、沖縄の詩人にもまた課せられていると考えた。
  『情念の力学』の黒色をめぐる記述が素晴らしい。

「「黒」は色彩の王であり、豊かさを超える解明し難い異次空間だ。それは現存のグロッタであり、意識の夜だと言えよう。「黒」は意識の終りであり、瞼をとじないと視えない世界だ。人は瞼をとじるとき盲目な賢者に似てくるだろうし、世界は遠近法を超えて近づいてくる。言うなれば方法化の極限を志向するとき人は黒という色彩になじむのだ。すなわち方法化の根基を掘りすすんでゆくと「知性」の支配権をはみだす出自の夜にであうのだといえよう。」

  ある画家の色彩について書かれた文章の一節だが、この「黒」はまた、清田にとって詩というものが、その存在にまとう色でもあるのではないか。清田は個を掘り下げることだけが人と人を結びつけると考えた。詩とは意識を掘り下げ、無意識において幻視するものだった。「瞼をとじる」はそうした自身の詩の方法でもある。「グロッタ」は洞窟を意味するイタリア語。そこには清田が詩を書く個の内部、詩人がうずくまり、新たな産声である「第一の声」を上げる胎内のイメージが重ねられているのだろう。
   清田の詩は不眠の夜に書かれた。詩は夜の黒よりさらに黒いヴィジョンを描き出した。清田の60年代の詩を代表する長編詩「ザリ蟹と呼ばれる男の詩篇」は、時代の闇の中で闇より黒い思いを抱える「同志」たちへの内面的連帯の呼びかけの詩だ。この詩は1956年の第2次琉大事件(*)や六〇年安保闘争における自身の体験、さらにはアジアの各植民地の独立運動といった、時代の激動に「ピリピリ」共振している。

「一九六〇年の仄暗いキャバレーの/カウンターで  静かに空を割る手に/脱落オルグの衝迫しない習性/横にしか移動しない夥しい苛立ちの形をみても/珊瑚樹が   ピリピリ痛みをおしのべる闇に/美しい   悪の眼球しばたたく   黒いザリ蟹よ/ひとたちのなかで  渇えを癒せず/虚空に夥しい食指をのばし  不毛の海綿をほおばる」(「2」)                           
  六〇年安保以後、現実における自由への希求の挫折を実感するにつれて、内面の自由を求める「情念」の力はより濃度を増し、ここで「黒いザリ蟹」という美しい「ヴィジョン」を獲得した。この詩はやがて1960年の廃墟の夜を漆黒の宇宙にさらしてゆく。
   だが清田政信は「黒の詩人」に尽きるのではない。清田は1984年に書くことを止めたが、その直前に「碧(みどり)詩篇」という詩集を出している。まだ私は手にしていないが、そこには恋愛の喪失体験が関わっているという。近いうちに読んで、黒から碧への詩の変移を感じ取ってみたい。そこには人間の内面の深海で色を変える詩というものの秘密が、隠されている予感がするから。

*1956年の米軍用地料一括払いに反対するデモで、学生が反米的な言葉を叫んだことなどを理由に清田の所属する「琉大文学」の部員を含む7人の学生が処分された。

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