アーカイブ3・絵と対話した詩人たち(2019年4月〜)

*2019年7月
古賀春江の詩の海(2)
                                 河津聖恵

前回の冒頭でも触れたように、私は昨年6月、福岡県久留米市にある、古賀春江の生家の寺を訪れました。中にも少し上がらせていただいて、画家が少年時代に描いた水彩画も見ることが出来ました。また水子地蔵のお堂なども画家の生涯と深く関わるものとして印象深かったですが、最も心に刻まれたのは、非業の画家のお墓の近くに咲いていた紫陽花でした。その青い色は紫に近いものでしたが、なぜか代表作「海」の海や「窓外の化粧」の空の色と遠く繋がっている色に思えたのです。土の成分で色が移りかわる紫陽花。お寺の墓地というシチュエーションのためか、その時何かとても仏教的な花に思えました。

仏教的。

そう、古賀春江のシュルレアリスム絵画は、どこか仏教的な無常観の闇や寂しさを感じさせます。飛行船や工場などの近代的イメージをコラージュした「海」でも、その印象はぬぐえません。いやむしろ、三次元と二次元が混在する不安的な絵の世界を支える、青緑色の深い海の存在感は圧倒的です。急速に進む日本の近代化の板子一枚下の無意識には、仏教的な無常観の海が広がっているーーそんな画家の「近代観」がこの絵には込められているのかも知れません。

そしてだから私の心を深く捉えるのかも知れません。

1895(明治28)年、久留米の寺町にある浄土宗の寺に生まれた春江。生まれた時の名前は「亀雄(よしお)」と言いました。20歳の時に僧籍に入り、「良昌(りょうしょう)」と改名。呼び名を「春江」とします(この事情については後述します)。

幼い頃から絵が好きな子供でした。内気で読書好き。学校から帰るとお寺の中にこもって本を読んだり、絵の模写をしたり。この幼年時代の夢想が、後の絵のイメージの母胎となったのでしょう。(死者たちの眠る湿った土の匂いと、紫陽花の青と、お堂の闇と…。)

父親は、亀雄が7歳の時に婿養子に寺務をゆずり、亀雄の訓育につとめるようになります。(始終父親が見守る幼い息子の気持というのは、どんなものだったのでしょうか。。)

1910年、15歳の時に中学入学とほぼ同時に、久留米の洋画家松田実に絵を習い始めます。

しかしこの中学時代に、野球のボールが当たって、右眼の視力を失ったそうです。もしかしたら春江のシュールレアリズムの二次元と三次元の混在は、隻眼の視野とも関係があるのかも知れません。(その点に触れた文献はあまりないようですが。。)

1912(明治45)年、中学三年(17歳)の時に、洋画を学びたいと退学を希望します。しかしもちろん両親は反対。それでわざと校則を犯して、周囲に断念させ、ついに退学します。ここにも春江の絵への思いのつよさが並々ならぬものだったことが分かります。

同年夏に念願の上京を許され、つてをたどって神楽坂のお寺に奇遇し、「太平洋画会」に入ります。

この「太平洋画会」という団体は、聞きなれないので調べてみました。

   2003年に府中市美術館で行われた展覧会「もうひとつの明治美術 -明治美術会から太平洋画会へ-」の紹介文を、同美術館のHPから引用します。

「明治22年(1889)、日本で最初の本格的洋画団体である「明治美術会」が、小山正太郎、浅井忠らによって結成されました。当時、絵画では日本画、彫刻では木彫など、日本の伝統的な美術しか認めない国粋主義の風潮が高まっていました。そのため、明治20年の東京美術学校創設当初には、洋画部門がなく、西洋伝来の油絵を描く画家たちは洋画への排撃に大変な苦難をしいられ、これに大同団結を図って対抗したのが、明治美術会でした。
  しかし黒田清輝が、印象派風の明るい作風を日本にもたらし白馬会を結成すると、多くの洋画家たちが明治美術会から白馬会へと移ってゆきました。明治美術会に残った吉田博、中川八郎らは、明治美術会を発展継承させ、明治35年「太平洋画会」を創立。ジャーナリズムは、これを新旧対立すなわち「白馬会vs太平洋画会」として書き立てました。
 吉田博、中川八郎ら若手の画家たちは、日本で描きためた水彩画を携えてアメリカを目指し、そこで成功をおさめ渡欧資金を得てフランス留学を果たしました。日本風景の情緒を巧みな手法で描いた「道路山水」、詩情豊かな水彩画、彫刻、さらにはフランスアカデミズムの大家ジャン=ポール・ローランス流の歴史画など幅広い作風をもつ太平洋画会ですが、旧派・脂派と呼ばれ、およそ100年間、あまり評価されることなく今日に至りました。
 優れた才能をもちながら、時代の波にのみ込まれていった作家たちの個々の作品から、もうひとつの「明治」を感じ取っていただければ幸いです。」

  つまり、太平洋画会とは、「日本の伝統的な美術しか認めない国粋主義の風潮が」高まっていた中で、「西洋伝来の油絵を描く画家たちは洋画への排撃に大変な苦難をしいられ、これに大同団結を図って対抗した」明治美術会を前身とし、印象派中心の白馬会と共に、ナショナリズムに向かう時代の中で、日本の洋画を追究した美術家の集まりであって、今も存在する団体なんですね。

  引用文中に太平洋画会の特徴の一つとして「詩情豊かな水彩画」が挙げられていますが、古賀春江もまた、初期から水彩画に関心を寄せ、太平洋画会研究所に入った翌1913(大正2)年に、日本水彩画研究所にも入ります。

たしかに春江の水彩画は、シュールレアリズムの理論と照応する油彩とは違い、詩情あふれる優しさを感じます。(どこかで水彩画は詩で、油彩画は長編小説だと書いていたと思います。)

  1912年の上京の頃から、春江はスケッチブックに写生画と共に短歌や詩も書き残すようになります。絵よりむしろ短歌や詩の方が多かったそうです。その数の多さから、当時画家になろうと上京しながらも、春江は文学にも関心を抱き、文学の道に進もうとも考えていたのではないかという推測が出来るようです。

「この文学的資質は、後日、古賀春江が超現実主義的な絵画を生み出していくうえで基礎的なものを形成し、前衛的な文学的資質の萌芽ともなっていく可能性を持つに至った。その後年の古賀春江の創作活動を知るうえで、初期の文学的創作活動を再検討することは、不可避的で有意義な作業であると思われる。」
(橋秀文「古賀春江の初期のスケッチブックー北原白秋への憧憬から旅立ちへー」『古賀春江の全貌』)

残された「スケッチブック」はかなりの冊数にのぼるようです。なかなか実物を見ることは叶わないと思いますが、「文化遺産オンライン」(http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/90936/3)というサイトで、その一端を垣間見ることはできます。

この「スケッチブック」は、もし実物を読むことが出来たら、古賀春江の絵についてだけでなく「詩と絵の対話」というテーマをめぐって、非常に示唆的な言葉を読むことが出来るはずです。

初期のスケッチブックには、当時東京で活躍していた北原白秋に春江が心酔していた様子が見て取れると、橋氏は書いています。白秋が春江の故郷久留米の隣町である柳川出身だったということもありますが、故郷での幼年時代をモチーフとする詩集『思ひ出』や異国情趣漂う詩集『邪宗門』ではなく、都会的に洗練された歌集『桐の花』だったことに、橋氏は注目します。

白秋を真似て自分も植物園に通って写生を行ったり、『桐の花』に登場する白猫を歌にし、絵にも描いたり、白秋のエッセイ「ふさぎの虫」に出てくる「剃刀と鶏の血を思わせる鶏頭が相互に神経を奮い立たせ合うモティーフ」に感化された短歌を作りました。

さらに、斎藤茂吉の歌にも関心を寄せていたそうです。

詩人でもある画家竹久夢二はやはりつねにスケッチブックをたずさえ、心惹かれたものや目に映ったものを描き止めていましたが、春江のスケッチブックの習慣も、夢二に倣ったものでもあるようです。

さらに春江が関心を寄せた詩人として、西脇順三郎の名が挙げられます。

「海」が描かれた1929年以降、春江は「海」や「窓外の化粧」に大胆に用いたようなコラージュ手法を追究していきます。一方対照的に、1920年代後半から1930年代初頭まで大きな盛り上がりを見せたのは、プロレタリア芸術運動でした。

「大正期から前衛的な美術運動に関わってきた古賀にとっては、活動をともにした多くの美術家がプロレタリア運動に参加するなかで、自らの立場を明確にする必要を感じていたに違いない。」(速水豊『シュルレアリスム絵画と日本』)

  それゆえに1930年1月の『アトリエ』誌上に論文「超現実主義私感」を発表します。この中で春江は自らの超現実主義を「消滅への機構」と名付けました。そこに、1929年に出版された西脇の『超現実主義詩論』の影響がある、と速水氏は指摘します。

「そのなかで西脇は純粋芸術と不純芸術という対立項を設け、純粋芸術は「経験意識の世界が拡大して遂に消滅したその瞬間の世界を作ること」、言い換えれば「自己存在の意識がなくなった瞬間を作ること」としている。また純粋詩は「実感の世界を消滅さすところのメカニスム」であり、純粋芸術は「経験意識の世界即ちモア(moi)の世界を消滅せしめる一つのメカニスムである」と総括される。西脇がここで用いている術語をほぼそのまま利用して、古賀は自らの消滅についての議論を展開したであろうことが想像される。」

  シュルレアリスム=消滅への機構=自己意識の消滅の瞬間に現れる世界を掴む方法、という、西脇に影響された春江の理論は、しかし彼独自のものです。1929年の「海」に描かれた、無意識の青緑の海と、深く関わるように私には思えてなりません。

西脇のシュルレアリスムにある覆る宝石の煌めきとは対照的に、春江の「消滅」には仏教的な死の観念、あるいは日本の土俗的な闇があるように思えます。少なくとも理論では意識されてなくても、理論の実践としての絵画においては、それは滲み出ている気がします。そう感じるのは私だけではないでしょう。

一方やはり1929年頃、春江はもう一人のシュルレアリスム詩人竹中久七と知り合います。竹中が同年に創刊したシュルレスム詩誌『リアン』は、春山行夫編集の『詩と詩論』(1928年創刊)と並ぶ前衛詩誌として注目されていました。竹中は、ブルトン系の「空想的超現実主義」を否定し、いわゆる科学的超現実主義を唱えていた、やがてマルキシズムに傾倒していく詩人で、春江はその「科学的超現実主義」に共鳴しました。春江が自らの芸術でめざすものは、消滅による純粋性。その「純粋性の誤りなき把握のための精密なる理知的計算」を、科学に求められると考えたのでしょう。しかし春江は、竹中と共にプロレタリア芸術運動の方向へ向かうことはためらい続けました。ここにも思想の違いというより、生来の内向性と仏教的な思考が関わっているのかも知れません。

そして1929年は発病の年でもありました。

当時不治の病だった梅毒でした。「海」や「鳥籠」や「素朴な月夜」といった名作を発表した年でありながら、何ということでしょうか。

次の引用文には1929年まで春江を次々と襲った身近な人々の死が述べられています。

「(…)この時期に発病したことは、少なからずその後の作品へ影響を及ぼしていると思われる。(改行)死を意識して初めて生を実感するというが、古賀にもそんな心境があったのだろうか。若き日の親友藤田謙徳の自死の後、わが子の死産、愛人と母の死と続く、度重なる近親者の死を経験してきた古賀であるが、自らの死を予感したとき、作品を描くことで死を生へと転換させようとしたのかもしれない。」(長門佐季「浮遊するイメージー古賀春江」『古賀春江の全貌』)

ちなみに先に少し触れた文中の「親友藤田謙徳の自死」は、春江が「亀雄」から「春江」に改名したきっかけになった出来事です。藤田は同居していた郷里の画友であり、二人は一緒に自炊生活をしていました。その藤田がある日突然毒を飲んで自死し、春江は死体を目の当たりにしてしまう。そしてうつ状態になった春江を心配し、父親が僧籍に入れ、良昌と改名し、呼び名を春江と呼ぶことにしたのです。

さて、1929年以降、日本国家は、戦争への道をひた走り出していきます。しかしその現実に対し、春江は抵抗を試みることはありませんでした。弱い自分を守るように竹中からも距離を置いていきます。自分の残り少ない時間を、外部の現実に使うことは出来ませんでした。(この辺りは日中戦争前夜、結核が重篤になってから新たな詩の光を求めて旅をした立原道造を思い起こさせます。)

ただ1933年、やはり竹中が関わった詩誌「詩の家」を版元とする「非人称命題叢書」というシリーズの詩集の表紙に春江が描いた、地球儀と怪獣がコラージュされた装画は、日本の満州侵略と共産主義を対峙させているという説があり、春江から竹中の影響が全て消えたわけではなかったのでしょう。

残された短い時間に、春江は新しい社会という未来に向かう思想をはぐくむ余裕もなく、消滅するための涅槃の境地を求めて、内面の底へ底へとイメージを求めていったのでしょう。

そして死の二年前の1931年、川端康成と出会います。春江は病から来る精神不安からか、愛犬熱が高じ、ブルドックを飼い始めますが、川端とは「犬つながり」で知り合ったようです。

 川端康成とのことや晩年の様子や心境、また全生涯を見渡した上での春江の「詩と絵の対話」については、次回(最終回)で考えたいと思います。

最後に、川端康成が春江の死の8年後、1941年に書いたエッセイ「落花流水」で紹介した春江の詩の中から一篇を紹介します。1927年に描かれた油彩画「煙火」の解説として書いた同題詩です。ここにも春江独特の生ける真闇と万物流転の蠢きが現れているように思えます。美しい童話的な小品ですが、春江の内面の奥にある真闇を覗き見るようで、怖い詩でもあると感じます。

「煙火」

境界もない真っ黒い夜の空間に
パッと咲く花火

昔の如く静かに
物語の王者の如く高貴華々しく
煙火は万物を蘇らせる

流れる光  音のない静かな嵐
混溷としたる現実にカッキリと引く一本の白線

人はその上を渉りたがる
人はみんな逆さになって煙火を見てゐる
紋のある紫紺の羽の大きな蝶になって


*2019年5月

古賀春江の詩の海(1)
                                河津聖恵

昨年六月、所用で福岡に行った帰りに久留米市に立ち寄り、「寺町」とよばれる、たくさんのお寺が集まった通りを、門前の立て札に記された名を確かめながら、ぶらぶらと歩いていました。

戦前に活躍した前衛画家、古賀春江の生家である善福寺を探していたのです。

その頃戦前の日本のシュールレアリスムの詩について詳しく知るためにいくつかの関連書に目を通していくうち、戦前を代表するシュールレアリスムの画家の一人である古賀春江が詩を書いていたことを知り、ちょっと興味を掻き立てられていたのです。

そもそも古賀春江については、殆ど何も知りませんでした。記憶を辿ってみると、1988年に兵庫県立近代美術館で行われた「1920年代日本展」において初めて古賀の代表作といわれる「春」や「窓外の化粧」を見て、その不思議な構図と色彩、そして独特の雰囲気にただならぬ何かを感じたことはよく覚えています。しかしその後、この画家についてとくに知ろうともせず、「海」の魚たちが泳ぐ謎めいた暗緑色の海や「窓外の化粧」の真っ青な空を背景にビルの上で踊る不思議な女性のスカートの膨らみなどを記憶の奥に放置したまま、長い歳月がたちました。

そしてほぼ30年後、遥かな時を越えて再びその海は私に謎をかけに来たようなのです。



30年後、私は古賀春江に再び謎をかけられることになりました。ここ最近、戦前のモダニズムやシュルレアリスムに関する詩論集がいくつか刊行され、目に付いたということもありますが、昨年1月にパリに行ってエリュアールの生地を歩いたりしたことをきっかけに、仏シュルレアリスムについてあらためて色々見聞したことが大きかったと思います。そしてその過程で、仏シュルレアリスムに影響を受けつつ、独特の陰翳を持って展開した日本のシュルレアリスムについて知っていきました。さらに日本のシュルレアリスムにおいても、詩が大きな役割を果たしていたということがよく分かったのです。とりわけ古賀春江は、たくさんの詩を残し、詩から着想して絵を描いたと言ってもいい画家だったというのは予想外の事実でした。そしてそのことからも私はこの画家に惹きつけられていきました。

「古賀の場合、詩想を練ることがすなわち、彼のデッサンだったかも知れない。古川智次のいうように、「古賀春江は詩才を有力な資本とした」画家であった。(改行)古賀春江が詩想を意欲的に絵画のモチーフとしたのは、ポール・クレーに触発されたいわゆるクレー風の時代以降である。文字の代りに絵の形式で詩を描くといった竹久夢二の画魂につながるものがある。」(中野嘉一『古賀春江  芸術と病理』)

 冒頭に「詩想を練ることがすなわち、彼のデッサンだったかも知れない」とあります。そこには「古賀の絵はデッサンが弱い」という指摘が当時あったことと対をなしているようです。古賀のデッサン力不足という評価は、私には意外でした。デッサン重視の写実の時代だったから厳しい評価が下されたのでしょうか。私などには大変絵の上手い画家という印象があったのですがー。ただ「春」や「窓外の化粧」は、確かに全体像としては平面や立体が入り混じっているということもあって、不安定な印象は受けます。でもそこがシュールレアスムたる所以でもあって、当時の美術界にはまだ理解が及ばなかったのかも知れません。

その「不安定さ」「シュールレアスムっぽさ」(日本の土俗性や野暮ったさの味のあるシュールレアスムとでもいえるでしょうか)に、出会いから30年後、私はあらためてこの画家の「詩と絵の対話」を探っていきたいと思っています。私自身の感受性の変化もきっとあるはずで、私はようやく1920年代から30年代に活躍した古賀春江に追いついたということかも知れません。

本コーナー「絵と対話した詩人」では、これを含め何回かの連載として、古賀春江における詩と絵の関係を追って行きたいと思います。冒頭で述べた久留米市での生家探訪についても、やがて綴りたいと考えます。

それでは今回は最後に、「海」が発表された2年後の1931年に刊行された『古賀春江画集』の中で、古賀春江自身が付した「海」の「解題詩」全文をご紹介して、次回の予告とさせていただきます。

透明なる鋭い水色。藍。紫。
見透される現実。陸地は海の中にある。
辷る物体。海水。潜水艦。帆前船。
北緯五十度。

海水衣の女。物の凡てを海の魚族に繋ぐもの。
萌える新しい匂ひの海藻。

独逸最新式潜水艦の鋼鉄製室の中で、艦長は鳩のやうな鳥を愛したかも知れない。
聴音器に突きあたる直線的な音。

モーターは廻る。廻る。
起重機の風の中の顔。
魚等は彼等の進路を図るー彼等は空虚の距離を充塡するだらうー
双眼鏡を取り給へ。地球はぐるつと回つて全景を見透される。

*2019年4月

「清田政信の「黒」」
                                   河津聖恵

  「戦後沖縄文学のレジェンド」とも言われる清田政信は、1937年久米島に生まれた。50年代半ば琉球大学在学中から詩を書き始め、80年代始めまで沖縄の詩人の中で最も精力的に詩と評論を発表し、8冊の詩集、3冊の批評集を出している。だが80年代後半病を得て書くことをやめ、今も療養を続けている。本土はもとより沖縄でも知る人は次第に少なくなった。
  だが昨年八月、三十四年ぶりの著書『渚に立つー沖縄・私領域からの衝迫』(共和国)が出た。沖縄の風土と、現代詩を書く自己との葛藤を、詩的な言葉で考察する特異な論集だ。清田の「復活」には、若い世代の読者が増え始めたという背景がある。沖縄では「清田政信研究会」も立ち上がったらしい。
   清田は美術批評も書いた。『情念の力学ー沖縄の詩  情況/絵画』(新星図書出版、1980)には、当時の沖縄の画家をめぐるアクチュアルな論が収められる。清田の絵画論はほぼ詩論であると言ってもいい。メタファー、イメージ、そしてそれらの源としてのヴィジョンといった視覚的(幻視覚的)な要素が多いこの詩人は、絵画に並々ならぬ関心を持っていた。『情念の力学』では沖縄の絵画を論じていて、本土と同じ戦後が存在しない沖縄の「空虚」を凝視する必要性をうったえている。さらにその「空虚の凝視」は、沖縄の詩人にもまた課せられていると考えた。
  『情念の力学』の黒色をめぐる記述が素晴らしい。

「「黒」は色彩の王であり、豊かさを超える解明し難い異次空間だ。それは現存のグロッタであり、意識の夜だと言えよう。「黒」は意識の終りであり、瞼をとじないと視えない世界だ。人は瞼をとじるとき盲目な賢者に似てくるだろうし、世界は遠近法を超えて近づいてくる。言うなれば方法化の極限を志向するとき人は黒という色彩になじむのだ。すなわち方法化の根基を掘りすすんでゆくと「知性」の支配権をはみだす出自の夜にであうのだといえよう。」

  ある画家の色彩について書かれた文章の一節だが、この「黒」はまた、清田にとって詩というものが、その存在にまとう色でもあるのではないか。清田は個を掘り下げることだけが人と人を結びつけると考えた。詩とは意識を掘り下げ、無意識において幻視するものだった。「瞼をとじる」はそうした自身の詩の方法でもある。「グロッタ」は洞窟を意味するイタリア語。そこには清田が詩を書く個の内部、詩人がうずくまり、新たな産声である「第一の声」を上げる胎内のイメージが重ねられているのだろう。
   清田の詩は不眠の夜に書かれた。詩は夜の黒よりさらに黒いヴィジョンを描き出した。清田の60年代の詩を代表する長編詩「ザリ蟹と呼ばれる男の詩篇」は、時代の闇の中で闇より黒い思いを抱える「同志」たちへの内面的連帯の呼びかけの詩だ。この詩は1956年の第2次琉大事件(*)や六〇年安保闘争における自身の体験、さらにはアジアの各植民地の独立運動といった、時代の激動に「ピリピリ」共振している。

「一九六〇年の仄暗いキャバレーの/カウンターで  静かに空を割る手に/脱落オルグの衝迫しない習性/横にしか移動しない夥しい苛立ちの形をみても/珊瑚樹が   ピリピリ痛みをおしのべる闇に/美しい   悪の眼球しばたたく   黒いザリ蟹よ/ひとたちのなかで  渇えを癒せず/虚空に夥しい食指をのばし  不毛の海綿をほおばる」(「2」)                           
  六〇年安保以後、現実における自由への希求の挫折を実感するにつれて、内面の自由を求める「情念」の力はより濃度を増し、ここで「黒いザリ蟹」という美しい「ヴィジョン」を獲得した。この詩はやがて1960年の廃墟の夜を漆黒の宇宙にさらしてゆく。
   だが清田政信は「黒の詩人」に尽きるのではない。清田は1984年に書くことを止めたが、その直前に「碧(みどり)詩篇」という詩集を出している。まだ私は手にしていないが、そこには恋愛の喪失体験が関わっているという。近いうちに読んで、黒から碧への詩の変移を感じ取ってみたい。そこには人間の内面の深海で色を変える詩というものの秘密が、隠されている予感がするから。

*1956年の米軍用地料一括払いに反対するデモで、学生が反米的な言葉を叫んだことなどを理由に清田の所属する「琉大文学」の部員を含む7人の学生が処分された。

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