松永茂雄『流れるいのち』松永茂雄・龍樹『戦争・文学・愛』

                  田中淑恵  

「たゞうたかたの人の世に誰か永遠の生命を願はないものがあらうか。」

 ー松永茂雄「文芸学の構想」昭和13年の書簡より

松永茂雄・龍樹兄弟は新古今の和歌や古典文学に寄せる深い知性と造詣を備えながら、昭和の10年代という受難の時代に二十代だったその痛ましい巡り合わせによって、蒼茫の二つ星が落ちるように、出征の地で相次いで戦死した。茂雄享年二十五歳。戦争末期に応召した三歳下の龍樹は、享年二十七歳。
 
父は海軍士官、兄弟は麻布笄(こうがい)町に育った上品で礼義正しい都会の子であり、文芸に親しんでいた「みどりお母さま」と慕われた実母は早逝したが、後添いの「よし子お母さま」とも良好な関係を築いていた。
 
茂雄が旧制一高理科に入った十九の春(1931/昭和6年)、草に寝て虫めがねで葉っぱを覗いていると、隣で草を食べているひょろりとした少年と言葉を交わす。それが同級だった立原道造である。「やたらに草を食べると毒だよ」それから二人は友だちになった。茂雄は彼に軍艦と飛行機と児童文学の知識を与え、道造は、短歌と詩と浅草と墨田川の話をした。二人があどけないリーベを持ったときには、お互いに写真や手紙、パステル画の肖像や短歌を見せ合った。立原は「やぶけたローラ」という未完の作品に、茂雄との初期の交流を記している。

翌年、茂雄は一高を中退し、私立花岡学院の児童教育の実践にあたる。平行してガリ版の同人誌「ゆめみこ」、その後継の回覧誌「銀弓(ぎんゆみ)公子」を発行し、この年には、詩やエッセイ、劇作、歌論などを精力的に創作している。立原も「ゆめみこ」にいくつかの小品を寄稿。昭和11年、國學院大学文学部予科に入学。弟龍樹も同級だった。昭和12年、在学のまま応召、翌13年に上海にて戦病死。陸軍伍長。龍樹は16年に同大学卒業、卒業論文は「新古今序説」。折口信夫研究室の助手となる。その年、まだ学生であった綾子夫人と結婚。17年に応召入隊、中国へ向う。18年少尉任官。19年、河南省の戦闘で戦死。陸軍中尉。

「ならひ学ぶべき歌人は、
想は定家
姿は俊成
調は雅経
表現は学ぶもの、心は自ら悟るもの。  如何なる歌聖の歌も心は学んではならない。

女流の歌
何人もならふべきは式子内親王。
ロマンチストは俊成女
理知の勝つた人は宮内卿
純情可憐を愛すれば讃岐
熱情家は和泉式部
寂光の愛は蓮月にこそ。」
                       ー松永茂雄「神垣山和歌抄」

 
 「それは何と呼ぶべきものか、何と説明すべきものかわからない。けれど、それは凡ての人が共通して、自己の内部生命のうちに追求してやまない統一的な或るものである。僕はそれを・流れるいのち・(・・内傍点)と呼んでみよう。
 僕たちが持ついろんな悩みは究極する所、・流れるいのち・への合一を求めての悩みである。それが宗教となり、哲学となり、芸術となつて、世界を動かして行く。」          
            ー松永茂雄「流れるいのち」

國學院大学教授の風巻景次郎氏が、「十年に一度しか出て来ない学者になる」と期待をかけていた茂雄、兄に感化されて、新古今の世界に深く魅入られ、戦地にあっても兄の遺稿集を編むことを熱望した龍樹。この二人が存命だったなら、戦後の国文学界にどのように大きな足跡を残したことだろう。國學院のグループはみな仲がよく、松永兄弟の周りには、のちに教職に就いたり、角川源義のように出版社を創立した学友もいた。

「学徒は機関銃弾の雨の中にも知性の修練を離れてはならない」と「従軍手帖」に記した茂雄。「忠君愛国論」を書き、「僕は恋人のためには、凡てを捧げることが出来る。天皇のためには、恋をも、生命もすてて、満州の曠野に屍を曝すことも悔いない。」とその時代の青年らしく述べていた茂雄だったが、いまわの時に呼んだのは、亡き「みどりお母さま」ではなかったろうか。
 
龍樹は、兄茂雄が淡々しい恋人を『源氏物語』の紫のゆかりにちなみ、「ゆかり」「若紫」と呼んでいたのに倣って、まだ見ぬ恋人を「ボクのゆかり」「ゆかりちゃん」と記していた。それが出征前に親の決めたフィアンセから妻になる綾子と出会ってから、「A子」「綾ピン」に変わってゆく。書き急ぐように残した遺書とも言える「ゆかりのサロン」。龍樹もまた最後は「綾ピン」の名とともに果てたのではなかろうか。

茂雄の出征した昭和12年は日中戦争勃発の年であり、14年には、立原道造が肺結核で二十四歳で夭折している。龍樹が茂雄よりもいっそう悲劇的であったのは、兄の戦死、弟雄甲の事故死を受容し、太平洋戦争のターニングポイントともなったミッドウェー海戦で日本海軍機動部隊の壊滅した年に応召したことだろう。愛する妻を得て、国文学の世界に無限の夢を抱くことの出来る年頃に、そのすべてを絶たれ、殺戮にすら加担させられ、やがてはそれにも無感動になってゆく。
入隊前の甘たるい澄んだセンチメントは影をひそめ、龍樹の「従軍手帖」は、もはや別人のような締観と死を決意した厳しい語調で貫かれている。

「しかしなぜ、これほどまでに情熱を喪失したのであろう。軍隊にはいって一年、ついに一度も心深く動かされると言う事がなかった。
……それはあの呪うべき三八年の秋(兄・茂雄の死)以来の事ではあった。あの日から僕は別の星に住んでいる。人生へのあらゆるインテレストは失われた。(中略)戦争も国家も本当は僕にはどうでもよいのだ。」

  夢のなかでは茂雄や雄甲が生き生きと活躍し、定家や雅経がリアルな肉体を持った精神として迫り出す。

 「今までは、できるだけ"殺すまい”として生きた。これからは"殺そう”と意志するのだ。自分個人のことを言えば、どうしても生きて帰りたいと思い、在隊中の時は”数えまい(Just David)” とした。今は死のうとし、すべての時を数えるのだ。(中略)今は僕は死をもとめる。決して生きては還らない。」

 「〈なべて世の 情ゆるさぬ 春の雲 たのみし道は へだてはててき  ―定家〉
 定家という男は、まあ、なんと僕の心を知っていたのだろう。まるであきれるばかりだ!
〈たのみし道〉への郷愁は僕をとらえてはなさない。
しかもその春の雲さえが〈別れにし 身の夕暮に 雲消えて なべての春は うらみはててき〉ここまで来れば、もう何とも言いようもない。これ以上の哀傷があるだろうか。(中略)
〈たのみし道〉がへだてられて以来、僕は"叙情”を失いはてた。そしてそれは、この世界の動乱期においては、ただ僕のみの苦悩ではない。それは〈なべて世の〉ゆるされぬ叙情であったのだ。」
             ―「従軍手帖」松永龍樹

青春がもうそのまま晩年であったような時代に、若く礼義正しく、知性と教養を兼ね備え、思慮と思いやりの深い至宝のような青年たちが、国家によって無惨に殺された。その残り者の末裔たちが現代社会を形成しているのだから、昨今の世相が雪崩れるように劣化していくのは、七十年前からの宿縁というものではないか。虞(おそ)れおののくばかりである。

松永茂雄の『流れるいのち』という本と出会った学生時代。そのなかの海辺小話「あ・しいさいど・すとおりい」に魅せられ、貝のシールを貼ったアクリルの函入、ブルーの革装の本に仕立てた。表紙には四色の飾り石、背タイトル活字箔押、本文と見返しは波模様の和紙。栞紐付き。90×64mm。1996年。のちに春夏秋冬の七月の本として「季刊銀花」106号に掲載された。


*松永兄弟の『戦争・文学・愛』は和泉あき編。新仮名表記。1968年三省堂新書。松永茂雄『流れるいのち』は1972年風信社刊。旧仮名表記。風信社は兄弟の後輩にあたる山田俊幸氏が起こした版元で、立原道造の風信子荘にちなみ「四季派」関連の書物を刊行。わだつみ会の和泉あき氏に渡された松永家遺族からの原稿の調査・書写と解題にも携わっている。「ゆめみこ」の写真は、2018年開催のわだつみのこえ記念館の企画展「戦没学生と文芸」の冊子より。同館所蔵のもの。

☆プロフィール☆

田中淑恵(Yoshie Tanaka)
装丁家。東京生まれ。武蔵野美術大学で書物研究家の庄司浅水氏に稀覯本の講義を受ける。文化出版局で雑誌の製作に携わり、フリーランスとなってからは詩集、画集、限定本などの書籍の装丁を手掛ける。中学生で制作を始めたトランプサイズの小さな本は、講習・展示などを随時開催、著書に『水絵具の村』『自分で作る小さな本』『本の夢 小さな夢の本』活版詩集『ミモザの薬』最新詩集『若三日月は耳朶のほころび』などがある。

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