澱河

                            河津聖恵

ぬばたまの内奥がほころび
冲(むな)しさは月光のように横溢する
夜の河は流れだす
漆黒の空はじつは朝であり
朝の空虚として河はかがやいている
解纜した舟の上で絵師はぬるい春の墨に筆を染めた
河でもあり
河と共に流れるしずかな時間でもあるもの
しずかな時間であり 凍りついていく永遠であるもの
朝であるかも知れない夜
夜であるかも知れない朝
そのどちらにもいながら絵師は
そのどちらをも描こうとする
(絵師とは反転し浸透する多重の存在)
難破した船から逃げる鼠の鬚が
漆黒の水に浸かるように
朝の空虚から夜の濃密へ
筆先はいくどとなく濡れては蘇る
絵はどこへゆくのか 絵師は知らず
絵師がどこへゆくのか 絵は知らず
(灰色がかった瞳孔に練り込められる時空)
ネオンもなく家の灯もない黒死病の岸辺に
時間の傷として仄白く刻まれていく詩
おのずから淡く三百年を発光する澱河
あるいはそれは桜ふる真昼の河
みずからの夢の底へ沈む世界の陰画が
友禅の夜霧をふいに呼吸し明暗をまし
亡者の城にさしかかるあたり
陸はうっすら空虚となり 河こそは岸辺となる
ここからはもう生きる余地のない反転の甘美だ
絵師は闇を摺りつつ流され
闇に摺られつつ流れる
舟の中に魂の版木が揺れ 
空(くう)に描きだされるのは
この世に美しいものはどこまでも失われていくという
三百年の長い指の嘆き
岸に木々がふぶく白い花弁となって散らされ
閉じた貝のような家々を置かれた浜辺に
遙か未来への送電塔のような松が林立する
絵の尽きた先は不可視の浄土の海
描き取れない赫く無量の冲(むな)しさだ
真闇であるかも知れない閃光
閃光であるかも知れない真闇へ
ふと見れば絵師はもう攫われている
どこかで波の触手が歓喜にざわめく
死の空虚を落ちていく熱い火種は
次の世にあふれる「物」への飢えに身じろぎ 
錦の軌跡をやがて暗くほどきはじめる

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