*2019年8月のゲスト

 Bridge

                 ( 詩と写真) 北爪満喜


広い流れに掛け渡された鉄骨とコンクリートは揺れて
立ち止まると 体は上下に揺すられる
流れる川の上空で娘は浮かぶ

橋の中央が跳ね上がって ここを昔 船が通った
目を細めれば行き来する見えない大小の船の影
車やバスで休みなく震えつづける橋の上 
鉄骨のアーチがくっきりときれいに空に架かっている
無数に斜めの鉄骨がアーチを支えるために止められ
三角の空を雲が行く 三角の梁から鳥が飛び立つ
鉄骨から ふわっと足を離し 胸をはって飛ぶ あれは鳩 
もういない祖母の鳩胸の襟
古い時間の祖母に触れ 鳩になり翼を開いてみる 
震動する橋で上向くと 
ふわり 私は私を外れ みるまに飛翔 舞い上がる 
高みの風は銀に輝き 密集するビル群の上
風を切り眺める高層ビルの 間に東京タワーが光った
赤い鉄塔は少し懐かしい
ふるふると 目の奥で滲み出す 祖母や母との古い暮らし
家の中のまどろみ 団欒 暖かい良く動いた手
祖母は母は 支える 支え続けてきた 
アーチのようなものを日々を
能力はひっそり家の中に閉ざされ幽かにされてゆき 
他の何かになれなかった  

ここにない空に 飛行機が大きくアクロバット飛行する 
ゼラチンの空に うっすらと祖母の声が滲みだす
ちょうど旅行の途中でね 電車で東京を通るとき 
電車の窓から見えたんだよ 飛行機が輪をつぎつぎ描いて 
オリンピックが始まって

東京という地名で祖母と私が重なるただ一つの記憶が去ると 
鉄骨に並ぶ疣のような白いドットを見ながら渡った
並ぶ白いドットには茶色い錆びがギザギザ走って 
霞んで震えてわからなくなる亀裂の走る今この時を
斜めに止められた鉄骨のように 祖母たちや母たちが現れて 
生キ延ビテ、 と叫びを上げて 
娘の橋 橋を支える

 (初出2013年神奈川大学評論第72号「特集アジア新世紀」 )
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   「北爪満喜の言葉と写真」

                                 北爪満喜

  今年の6月、現代詩の世界が閉塞していることについてtwitterで話題になり、
評論家や詩人を巻き込んで呟きが沸き上がった。私も次のようにツイートした。
「詩の扉を開けたくて、雑居ビルの通路に詩と写真の展示の許可をお願いして、
続けてます。街ゆく人が写真を数枚眺めて最後に一枚だけ詩を読んでくれたら最
高だと!いろんな風に扉を開けたらいいと思います。」
 詩を書く者がそれぞれの仕方で詩の間口を開けて、敬遠されていたり無関心だ
ったりする詩を、もっと人々に身近にしてもらう何らかのアイデアを出すきっか
けになってくれれば、という思いから、雑居ビルの通路で展示している「通路の
詩と写真展」についてツイートしてみた。
 
  詩人なのに写真も撮る私の言葉と写真の経緯を少し話してみたい。
 詩を書くことを大切に続け、数冊の詩集を形にした後で、新しく現れはじめた
デジタルカメラで写真を撮り始めた。詩人で写真家でもある詩の先生の鈴木志郎
康さんに勧められ、1999年に北爪満喜のホームページ(hp)を開設。ブログの走りのような写真と言葉による「Memories」コーナーを開いたのだった。状況としては次々と性能の良いデジタルカメラが開発されていて、デジタル写真表現も様々に試みられている時期に当たる。多くの人がデジタルカメラで写真を撮りhpを開設し始めた。webが一般の人に身近になり始めていたのだ。webの活気はジャンルをこえて詩の間口を広げてくれた。孤独に詩を書いていた写真家の蓑田貴子さん(東川賞受賞)が、詩を書いているとhpを介して連絡をくれた。hpをリンクし合い、詩の言葉について話しているなかから、2001年には詩人も写真家も互いに詩と写真の両方をそれぞれ作り展示する二人展『覆された鏡匣』を企画し、谷中のギャラリーで開催した。(有り難いことに富士ゼロックス株式会社ART BY XEROXの協賛を得られた展示だった。余談だが面接に行ってみると企業の方が現代詩の知識があり、詩への理解があったことが大きかったように思う。)
 言葉と写真の両方を詩人と写真家の二人とも作り展示する試みは珍しく、写真
総合誌『アサヒカメラ』で写真評論家の飯沢耕太郎さんが私たちの『覆された鏡
匣』の紹介を書いて下さった。
 
「Memories」に話しを戻すと、日付を付し、写真を一枚載せ、言葉を書くことを日々更新してゆく「Memories」のコーナーは、初めは言葉と写真の日記のような面持ちだった。ほぼ毎日更新をし「Memories」を何年か続けていると、ある日、どうしても詩を書きたくなっていた。その日掲載した写真を〈起点〉にして歩きはじめるような詩を書くことが始まっていった。それは写真に向けて言葉を書くのではなく、写真を背にしてそこから一歩を踏みだし、どこか知らないところまで歩いていってしまう、言葉が記憶やイメージを巻き込んで進み続ける発語になっていった。「Memories」の更新を続けてゆくうちに自分の意識に何らかの運動が起ったというような感じがあった。出来事や日記ではなく、書こうとすると言葉が詩を求めて流れ出した。自分でも思いがけない勢いに出会ったのだった。
 「Memories」から一つの詩を紹介したい。2003年 10月6日にはデジタルカメラで撮った観覧車の写真を一枚載せた後に、次の言葉を書いている。10月6日と日付をいれた後、書いた言葉を改行もそのままにして引用してみる。


2003年 10月6日
「回ったら」 
何か考えながら歩いていた。
考えながら歩いるいてるとココデユキドマリデスという声に降られ、
ユキドマリ、ユキドマリと霧につつまれ寒くなる。
先の見えない寒い霧からこまかな雪の結晶が舞い、
そうか冬になったのか、ならばバスに乗ってゆこうと思う。
思いだけは霧のなかでも延びて先を開けるらしい。思いに添って期待をかけると
ここでおかけなさいとでも言うように道にベンチが浮かびあがった。
かけようとすると隣に丸いバス停の表示がみえてくる。
なんだやっぱりバスなら行けるんだ。
バス路線はカラフルに交差する線を光らせる。カラフルな線を見ていると、
道の向こうからやってきたのは、オモチャのように小さいバスだった。
一台、二台、三台と、やってきたバスはみな小さい。
小さくてとてもの乗りこめない。バスがほんとにオモチャなのか
ワタシが巨大になってしまったのか、わからなくて戸惑っていると、
とまどいの耳の戸を叩き、乗れないならツマリトマリデス、と追いかけてくる声
がした。
追ってくる声は何だろう。それはツバキトマリデス。えっ。
椿泊ならしっている。前に旅行で行ったから。ひとりの旅で
すこし疲れて、花の名前の町で泊まった。
ワタシは考えに運ばれてこんなところへ巡ってきたのか。
乗れないなら、ここで泊まってみようか。考えを木に留まらせる。
椿の花の木にとめる。気に留めていれば泊まっても、考えを掛け違えることはな
い。
だから眠ってしまってもいい。
ワタシがもしも巨大なら星が髪の間にのぼって、雲が胸を抜けるだろう。
それは夜のなぐさめだろう。
ゆっくりと霧が晴れるまで、月がのぼって、鳥が飛んで、しずかに季節を回った

考えが開く。木の枝で、春を得た椿の花のように。
そしたら、ぽたりと枝から降りて、いちど大地にキスをして、また歩いてゆけば
いい。


 ファインダーのないデジタルカメラは撮ることを人の目の高さから解放して
くれた。固定された視野からではなく多様に撮って、意図しない新鮮さを探って
ゆくことができる。実は人の目は、思ったほど自由に物を見ることができない。
社会の中で私たちは習慣化した目で見ながら過ごしている。その習慣化した見方
や、既成概念に捕らわれた枠から、外れる見え方の映像を得る可能性が、コンパ
クトデジタルカメラで撮ることに潜んでいる。私は、腕が動き手首が回る範囲の
体の動きに添って、できるだけ柔軟に撮ってゆきたい。それは詩の発語と似てい
る部分がある。あらかじめ分かって詩の言葉を書くことがないように、光なのか、遠さなのか、質感なのか、色彩なのか、対象へのこだわりなのか、状況なのか、その時毎に反応して撮ることは、はっきりとした一つの動機だけではないことが多い。


 撮った写真は、日々パソコンに移し、その日付けのフォルダーに仕舞っていた。
パソコン画面でその日カメラに入っていた多くの映像を一枚ずつ見てゆく。それ
はまだ光の切れ端でしかないが、コレ、と掲載する一枚を決めて、トリミングし
たり調整してゆくうちに、それは写真となってゆく。私は詩をパソコン画面で書
いている。デジタル写真も同じパソコン画面で選んだり調整したりする。詩を書
く者として二つ作業を同じ画面で行うということは大変重要なことだった。詩の
発語が引き出した記憶や、思索や、書きたい気持ちが、同じパソコン画面で映像
を選び調整する際に関わっていたようなのだ。またその逆のことも起こり、選ん
だ一枚の写真を介して、詩の発語が運動のように起こってきたのではないかと思
える。引用した詩「回ったら」も言葉の展開がどうなるかあらかじめ解ってはい
ないかった。「Memories」では写真を載せた後、詩を書きたくなって書くと、ほぼ自動筆記のように、考えてもみなかった展開で言葉が出てきてくれた。
 次々と写真を〈起点〉に「Memories」で生まれた詩を集め、2005年には、詩集『青い影 緑の光』(ふらんす堂)を作ることができた。この詩集に納めた全ての詩に〈起点〉となる「Memories」に載せた写真があったけれど、『青い影 緑の光』には(費用の関係で)カラー写真を数枚載せたのみだった。
 こうした作品はhpの他に詩誌『モーアシビ』(編集発行白鳥信也)で継続して発
表し現在に至っている。そのような経緯で、詩集『奇妙な祝福』(思潮社)のほと
んどの詩にも掲載はしていないが対応する写真がある。
 そして詩の朗読では写真のスライドショーを作り上映しながらのパフォーマン
スを多くの場で行っている。個展『記憶の 窓は水色の枠』がYouTubeにあるのでご覧頂きたい。
 https://www.youtube.com/watch?v=e7GS4Lif3mU
 ここではスライドショー『3月の呼吸』(DVD)を朗読している。『3月の呼吸』の詩の英訳は佐藤紘彰氏に協力して頂いた。

  さて、「通路の詩と写真展」に話しを戻すと、2007年から毎日新聞で2年間、月に数回「こころをうつす短歌 俳句」コーナーで短歌俳句とコラボする写真を担当した。それがきっかけとなって、多くの人々に写真を入り口として詩を読んで欲しいと願い、雑居ビルの通路に詩と写真を展示することを頼みに行き、幸いにも許可を得られたのだった。
 2007年10月から銀座三丁目の雑居ビルの通路の壁をギャラリーに見立てて、サニーギャラリーと名付け、「北爪満喜 通路の詩と写真展」として、詩と写真の展示を開始した。file.1「ヒカリのイノリ」は1枚の詩と5枚の写真だった。写真はA3ノビ。写真が大きく、通路では大きすぎて見づらいと気づいてから、1枚の詩と9枚のA3の写真へ構成を変えた。
 
  広告の言葉ではない言葉を街ゆく人がふと読んでくれたらと願っている。広告
ではない言葉を読み、もしも気になってしまったら、通路はきっと見慣れない場
所になる。日常が破れて、読んだ人の中に別の空間がうまれる。そこは詩の住み
はじめた空間なのだ。願いのような祈りのような気持ちで初め、今日まで続けて
きて、ついに今年2019年8月でfile.18になった。file.18のタイトルは「浮
力」。是非、通路を歩いてご覧になって頂きたい。
 今回はその一つ前のfile.17「しずかに光って」をご覧ください。     

*2019年7月のゲスト

「詩と絵の対話」
                            しろねこ社主宰
                 Painter kuro(Kiyoto.H)


詩と絵の対話を語る前にまず僕にとっての「詩と絵の対話」の定義を明確にしたい。

画家である僕にとって、「詩と絵の対話」とは、一篇あるいは複数の詩から絵を産み出す作業に他ならない。まずそれを前提にしたい。

しかし、それは物語の話に応じて語句を拾い具現化する一般的な挿絵(これは例えば詩に対してであっても同様だが)や、文人が絵筆をとる南宋画のようなもの(本人が絵を描いているのだから、対話なんだが自己問答だろう)ではない。

もっと哲学的なものだ。

「芸術がその本質において「詩作」であるとすれば、それは「作品」における「抗争」にあえて臨み、そこに留まろうとする言葉である。
「詩作」の本質は、それが語りえないものを切除することで理念的な意味の体系へと凝固するのではなく、むしろそのような語り得ないものへの敷居に留まり続けるという点にある。
言葉とは本来語るものであるにもかかわらず、その言葉が語り得ないものへのベクトルに苛まれているとすれば、「詩作」の言葉とは、自らの挫折へと方向付けられた常軌を逸した言葉なのである。
しかし存在の真理はそのような常軌を逸した言葉である「詩作」を通してこそ、われわれに明け渡される。」
(ハイデカー 芸術作品の根源より)

ハイデカーは、ナチズムに加担したりしてあまり好きではないのだが、この「芸術作品の根源」は良く読む。

で。

この存在の真理の明け渡し作業こそが、僕にとっての「詩と絵の対話」の定義であり、その存在の真理を絵にすることが(作品化することが)僕の芸術に他ならない。

だから、僕は詩を前にしていつも詩の中の存在の真理をひたすら探している。
それは、たった一篇の詩で見つかる時もあれば、全編読んでも何回読み返してもなかなか見つからないこともある。

それは突然に風景として僕の目の前に現れることもあれば、色として線ととして僕の周りを侵食して来る場合もある。あるいは過去自分が経験した何かの一シーンとして目の前を映像のように流れていることもある。

弊社刊、木村孝夫著「私は考える人でありたい」の表紙絵を描くに際しては、非常に苦しんだことを覚えている。
2011年の東北大震災を取り上げたこの詩集は、福島在住の詩人木村孝夫さんの詩集である。

そして僕もまたあまり公表はしていないが、偶然にも2011年3月11日に福島にいて被災した。
この話をお受けした時にだからこそこれは僕がやるべき使命であり、僕になら描けると意気込んだものである。

木村さんの真摯な叫びは、冷静な指摘は僕の深い共感するところだった。

だが存在の真理は?

存在の真理はどこにある?

何回読み返しても僕にその訪れがないのだ。

僕はやむを得ず「詩と絵の対話」を経ない絵を表紙絵として木村さんに提示した。それは実に良い絵だった。木村さんも喜んでくれた。しかし存在の真理の明け渡しを経ない絵は僕にとって「芸術」ではない。良い絵であっても作品ではない。

悶々としていた。

ある日突然にそれはやって来た。

雪が降っていた。福島原発メルトダウンの噂が郡山の町にも広まっていた。
空はどんよりと暗く小雪が朝から止むことなく舞っていた。
僕は自転車で4号線を走り黒磯に出ることを決意していた。
(道路は寸断され、検問もあり、なぜか車で福島を出ることが不可能だった。飛行機はべらぼうに高かった)

午前10時。自転車を4号線に乗り上げた時にふと空を見上げた。
「ああ、こんなに雪を浴びちゃってさ」
服に積もった雪を払い、誰に言う訳でもなく呟くと僕は自転車を漕ぎだした。

僕は忘れていたんだ。

白河に着いた時だった。もう辺りはすっかりと闇に覆われ、まるで人気の感じられない町は、静かに静かに息を潜めていた。雪はもう止んでいた。

「存在の真理」は僕の目となり、その時の僕の見たものを、再び見せてくれたのだ。

四号線の向こう真っ暗なまるで森のような静かな町の闇の中に小さな灯りが、微かに揺れていたんだ。それは、ちっぽけな光だったけれど、暖かくそして優しくて僕はいつのまにか泣いてしまっていた。

これから先黒磯まで先の長い僕にとっての希望であり、東日本大震災により壊滅的な被害を受けた(人々も動物も自然も土地も)全ての未来への微かな希望にも、思えた。

ああ、これを描かねばならない。
これが僕にとって、木村さんから明け渡しされた木村さんの詩の「存在の真理」なのだから。

画像がその表紙絵です。僕の中で「詩と絵の対話」を終えた「作品」です。

詩の「存在の真理」は多分直感のようなものかもしれない。

「ひとつの認識がどのような仕方で、あるいはどのような手段で対象に関わるにせよ、認識が対象に直接に関わり、また全ての思考が手段となって目指すところのもの、それは直感である。」
  (カント 純粋理性批判)

一時、詩人のヤリタミサコさんのギンズバーグの詩の教室にお邪魔して勉強させてもらった。(そのご縁でヤリタさんの著書「Ginsberg Speaks」に僕の絵を使用して頂いたり、一緒に「心にビート」なるイベントを開催したりしていた)

たくさんのギンズバーグの詩を勉強しているうちに、ふと感じた時があった。

「ああ、これは抒情だな」

僕には確かに見えたんだ。夕陽の中、貨物列車の引き込み線が見える丘に座って、デルモンテのトマト缶の汚れた看板を見つめながら膝を抱えて一人で座る男の姿が。第二次世界大戦が終了した後の喪失の世代。

ビートジェネレーションとして、ビート詩はある意味動的に革新的にさえ見えるが、僕にとっては常にビート詩は抒情だ。

ヤリタさんはもしかしたら苦笑していたかもしれないが。

ギンズバーグから「存在の真理」の明け渡しをされたとしたら、僕はいづれギンズバーグの詩を「真理」として絵にすることだろう。
それはあの膝を抱えて沈む夕陽の中ぼんやりとデルモンテの看板を見つめている男の後ろ姿に違いない。


「すなわち「作品」において「真理」がたち現れるのであり、この意味で「芸術」とは「真理を作品へと据えること」に他ならないのである。」
(ハイデガー 芸術作品の根源)

※参考文献 河出書房 ハイデガー
芸術

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