アーカイブ2・ 若冲連作詩「綵歌」

*4月

「霏霏」ー伊藤若冲「
                             河津聖恵

霏霏といううつくしい無音を
とらえうるガラスの耳が
多くのひとから喪われつつあった時代
ひとひらふたひら
空が溶けるように 今また春の雪は降りだし
この世の底から物憂く絵師は見上げる
見知らぬ鳥の影に襲われたかのように
煙管を落とし 片手をゆっくりかざしながら

雪片ははげしく耳をとおりすぎ
ことばの彼方に無数の廃星が落ちていく
ひとの力ではとどめえない冷たい落下に
絵師は優しく打ちのめされる
愛する者がはかなくなって間もない朝
この世を充たしはじめた冷たい無力に
指先までゆだねてしまうと
庭の芦の葉が心のようにざわめき
この世はふいにかたむいた
雁がひとの大きさで墜落し
風切羽を漆黒に燃やして真白き死をえらんだ

笑うように眠りかけて指先はふるえる
乾いた筆が思わず
共振れする 霏霏
「見る」と「聞く」 「描きたい」と「書きたい」
ひえびえと裂かれていく深淵に雪はふりつむ
眠りに落ちた絵師は
ついに胡粉に触れた
骨白に燦めく微塵の生誕を見すごさなかった筆先   
         
   *伊藤若冲「芦雁図」

*5月 
    「紅の匂い」
               ー伊藤若冲「南天雄鶏図」
                             
                              河津聖恵
                         

絵師とは画業の果てに死ではなく
闇に燃えおちつづける
熱い火種となることを選んだ者 
みよ 彼は今もここにあかあかと生きて  いる
漆黒の脚で大地をふみしめ
虚空をふりあおぎ
軍鶏はちからづよく言挙げをする
彼方でまなざしに照応する赤色巨星は描かれていない
外の外の宇宙に
それはいまもふくらみ赫き いのちを渇仰する

わずかにひらく嘴が不思議な笑まいを含み
三百年の空気を共振させる
ふいに漆黒の尾が打ち振られ
中空から南天の紅がずっしりと呼びよせられた
鮮血―
果てなくめぐるものに挑みつづけた軍鶏の
ついに あるいは
ふたたびの永遠の正午 
無量の実と共に鬨の声をたかだかと上げるそれは
一瞬の戦争
あるいは天地開闢
気配に気づいた者だけが絵を「見る」のではなく
色を「聴く」
黒の身じろぎと紅の匂いに
(色は匂い 絵師はそれを神気と呼んだ)
抱かれながら

偽りの世にみずから盲い 
軍鶏の生命にまなこをみひらき
世の闇に生きる痛みをおしのべた
絵師のまなざしが
今いきものからあふれる光の辰砂に埋められていく

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