詩と美術の関係について(続き)


             秋川久紫


鈴木は元々、千家十職の永楽善五郎工房の轆轤職人・鈴木宇源治の三男であり、周囲の者は全て陶磁器を作る仕事に就いている環境の中で育ったが、戦後、青年作陶家集団を経て走泥社に参加したことにより「土で出来て、轆轤では出来ない形」を目指して〈泥像〉〈土偶〉〈土面〉と呼ばれる主に自然をモチーフとした初源的な造形作品を、茶系色の陶器と青磁器の双方で多数創っていくことになる。その作品群には、どれも埴輪とか、縄文土器などを思わせるような懐かしさがあり、同時に既存の陶芸作品とは一線を画す前衛的・革新的な側面も多分にあって、美術表現として極めて高度な水準を維持しているのだが、中でも特に驚かされたのが、いずれも1987年に制作された群像作品である「掌上泥象 百種」と「掌上泥象 三十八景」である。その単純化されたフォルムもさることながら、掌大の一点一点の作品に付されたタイトルが面白い。

「掌上泥象 百種」を例に取って具体的に見てみると、各々の作品に「2.月のえくぼ」「9.ふくら雀」「15.夢境」「23.雲のマント」「26.冬の花火」「28.雪見舟」「30.弧影」「33.星の化石」「38.天の舟」「40.海の城」「45.星の信号」「48.讀人しらず」「56.禪者」「57.鴨打ち」「59.蜃気楼」「62.胡人」「64.行星」「66.寧日」「76.猛將」「79.佳人」「81.霰」「83.天のグラス」「88.風位」「90.佇立」「92.風の塔」「93.風の妃」「95.沙丘」「97.戻橋」「98.天魚」「101.春の繭」といったタイトルが付されており、青磁で作られた単純な形態と、これらのタイトルとの付合がもたらす詩的・求道的でありながら、どこかユーモラスな感興に浸っていると、とても贅沢な気分にさせられる。


Ⅳ.詩に軸足を置いており、一方で美術(的)表現も行う者(1)
 

今度は、作者自身は詩に軸足を置いて創作活動をしており、美術に関する表現は、基本的に畏敬を持って接している他者が創作・表出したものであって、その軸足を置いた詩作品の触媒もしくは表現上の契機・起点として位置付けられていたり、あるいは作品のモチーフそのものとして扱われていたり、さらには装丁・挿画など、その副次的・補完的・付加価値的な表現手段となっていたりするに過ぎないように思われる表現者を何人か見ていきたいと思う。この分野で最初に思い浮かぶのは、まず、詩人でありながら、一方で美術評論も行う者たちであり、その代表格としてボードレール、瀧口修造、宗左近、大岡信、建畠晢などの者を挙げることが出来る。
 
文筆の足がかりをフランスの官展であるサロン・ド・パリの出品画をモチーフとする美術評論によって始めたシャルル・ボードレール(1821年〜1867年)は、「1845年のサロン」や「1846年のサロン」などで最初にロマン主義を代表するウジェーヌ・ドラクロワを絶賛し、次にカミーユ・コローなどのバルビゾン派の画家たちや写実主義のギュスターヴ・クールベなどを、特にその色彩感覚やその調和の態様に着目しながら評価する論旨を繰り返し書いている。それらの論考には、やや過剰と思われる表現や一方的な断定口調のものが多く、現在から見ると、多分に外連味やアジテーション的な要素に満ちていて、そこにある種の偏向や独善的なものを読み取り、これを批判しようとする者も少なくないように思われる。ただ、それでもこれらの一連の美術評論の仕事が、やがて『悪の華』(1857年)や『パリの憂鬱』(1869年)といった文学史に深く刻まれる名詩集の中で結実していくための足掛かりになっていたとするならば、この破滅型の詩人の耽美的指向がもたらした、一時の偏向なり独善なりの様相を、ここで敢えて咎め立てする必要もないだろう。
 
一方でその昔、やや神格化され過ぎていたきらいのあるシュルレアリスムの日本への紹介者であり、その思想的なバックボーンかつ実践者でもあった瀧口修造(1903年〜1979年)に対して、自分はその師である西脇順三郎に対するのと同様に、これまで意識的に距離を置いて見るようにして来た面がある。もちろん、その文学史及び美術史的な価値や意義については認めざるを得ないところもあるのだが、残された詩作品や美術評論のいずれを読んでも、どことなく(過酷な現実や人間存在の実像に対峙していない)空疎なものにしか思えず、何ら自身の知や情に感応して来るところがないのだ。それは、瀧口と親交があった吉岡実が、例えば詩集『サフラン摘み』(1976年、青土社刊)所収の作品の一つ「舵手の書」のタイトルの横に「瀧口修造に」との添え書きを付していることへの違和感にも繋がっており、現代詩史を語る上で決して外すことの出来ない一級の表現者であった吉岡ほどの詩人が、何故、そこまで瀧口を評価していたのか、自分にはどうしても理解出来ないところがある。
 
この問題は同様に、詩誌『鰐』の仲間でもあったことから、吉岡と親交があった大岡信(1931年〜2017年)の美術観やそのコレクションに対する自分の違和感にも繋がっている。例えば、吉岡がその存在価値を認め、個人的に可愛がってもいた四谷シモンの(ハンス・ベルメールを思わせる)人形作品や金子國義のエロティックな油彩作品(それらはいずれも吉岡らしい、背徳的な要素に満ちたものである)に対して、大岡は吉岡ほどの関心を示さない。何故なら、大岡の関心は主にフランス美術を中心とする、言わば〈教科書的な〉西洋画の方に向けられており、国内の美術家の中では専らシュルレアリスムの体現者であった瀧口修造や、抽象絵画を主流とみなす現代美術の主要作家——菅井汲・駒井哲郎・利根山光人・今井俊満・加納光於・中西夏之・谷川晃一・宇佐美圭司などの画家や版画家たち、要は(今やガラスケースの中でお行儀良く鑑賞されるようになった〈前衛の化石〉でしかない)一時の日本美術の潮流そのものに価値を見出していたからである。
 
そして、自分が大岡に対してもう一つ不満を持つのは、30年近くの長きにわたって朝日新聞に『折々のうた』を連載し、勅撰和歌集や紀貫之など、日本の古典文学に対して強い関心を持ちながら、平安でも鎌倉でも室町でも江戸でも何処でもいいのだが、日本の古美術や東洋画を源泉とする現代の具象表現や造形美術などに対して、ほとんど関心を示している気配が見られないことである。もちろん、自分はここで、別に大岡の美術趣味そのものを咎め立てしたいと考えている訳ではない。吉岡のような背徳的なものを好まず、どちらかと言うと〈教科書的な〉ものを好むこと自体は一行に構わない。ただ、大岡のやっていることを音楽に喩えて言うなら、文学においては耐用年数の長いクラシックやジャズなどのジャンルを好んで聴き、一方で美術の世界においては、やがて飽きられることを宿命とする流行歌・アイドル歌謡ばかり享受しているようなものであり、仮にも一級の文化人の取るべき態度として、それは如何にも浅薄過ぎるのではないか、と感じるのだ。
 

 Ⅴ.詩に軸足を置いており、一方で美術(的)表現も行う者(2)
 
 
最後に、その刊行した詩集の装幀や挿画などにつき、版元任せにせずに、デザイナーや画家などの選定・指定も含め、積極的に関わった詩人、ケースにより自身が装幀を手掛けた詩人を何人か挙げて、この稿を締めくくることとしたい。
 
この分野で真っ先に浮かぶのは、本稿において、これまで何度も名前を登場させている萩原朔太郎(1886年~1942年)である。その晩年に出された著書『日本への回帰』(1938年)の巻末に収められた「自著の装幀について」において、朔太郎はその代表詩集『月に吠える』(1917年)の装幀をいずれも版画家として知られる恩地孝四郎と田中恭吉に依頼したいきさつとその成果につき、以下のように記述している。
 
「著者が自分で装幀するといふことは、仲々やつかいなことでもある。特に繪心のない著者にとつて、この仕事は一層に困難である。そこでいちばん善い方法は、自分の藝術をよく理解してくれる畫家を見つけて、一切表装等をたのむのである。私自身の場合で言ふと、處女詩集の「月に吠える」がそれであつた。この本の表紙は、當時僕等の同人雑誌「感情」の同人であり、詩人にして畫家を兼ねた恩地孝四郎君にたのみ、中の挿繪や口繪やは、當時画壇の鬼才と言はれ、日本のビアヅレに譬えられた病畫家の田中恭吉君にたのんだ。二人共僕の詩をよく理解してくれたので、成績は十分以上の出來であつた。特に田中君の病的な繪は、内容の詩とぴつたり合つて、まことに完全な装幀だつた。」
 
上記散文より前に書かれた随筆「装幀の意義」(『萩原朔太郎全集 第4巻』所収)において、「書物に於ける装幀の趣味は、絵画に於ける額縁や表装と同じく、一つの明白な芸術の「続き」ではないか」と記した朔太郎にとって、装幀は詩集出版において極めて重要なプロセスであり、逆に言うと、ここまで美術(的)表現にこだわっていた詩人も珍しいのではないだろうか。「自著の装幀について」では、この後、「猫町」(1835年)と「郷愁の詩人 与謝蕪村」(1936年)の挿画を版画家・川上澄生に依頼した旨の記述などが続き、さらに「全然畫家の手を煩はさず、一切自分で装幀した」ものとして、以下の著書が挙げられているのだが、これだけたくさんの著書を自装した詩人はそれほど多くはないだろう。
 
 
『青猫』(1923年、初版○)
『純情小曲集』(1925年×)
『虚妄の正義』(1929年、初版◎、改装版○)
『氷島』(1934年、初版◎)
『純正詩論』(1935年、初版○)
『絶望の逃走』(1935年、初版×、再版×)
『定本青猫』(1936年◎)
『廊下と室房』(1936年、初版○)
 
(注)朔太郎の成否の認識…◎=成功した、○=中等の出来、×=失敗した
 
 
さらに、これらの著書のうち、『虚妄の正義』と『絶望の逃走』の外函や表紙・扉には図案化された黒い鴉の絵がロゴマークのように付されており、ここにも朔太郎の独特な美意識とスタイリッシュな行動様式を見て取ることが出来る。もちろん、鴉がどこか不吉なものを予感させ、死の匂いすら漂わせる雰囲気を伴っていることも、当然考慮されてのことだろう。考えてみれば、朔太郎には「殺人事件」や「蛙の死」などを始めとして〈死〉をモチーフにした作品がいくつもあり、さらに言えば、「猫の死骸―ulaと呼べる女に」「沼沢地方―ulaと呼べる女に」「鴉」(いずれも『定本青猫』所収)などの作品との類似性により、朔太郎が影響を受けた旨を指摘されているエドガー・アラン・ポーの物語詩「大鴉」(1845年)との付合、本歌取り的な狙いもあったのかも知れない。
 
さて、その生業が文芸書の編集者であり、筑摩書房に長く勤務していた(晩年には監査役も務めた)という特殊性はあるにせよ、詩集や著書の装幀に関するスタンスが朔太郎と良く似ていた詩人として、ここで吉岡実(1919年〜1990年)の存在に触れておく必要があるだろう。吉岡は出版人として、筑摩から刊行された西脇順三郎、草野心平、宮沢賢治などの全集の装幀を手掛ける一方で、『入沢康夫〈詩〉集成・1951〜1970』(1973年、青土社)、飯島耕一詩集『ウィリアム・ブレイクを憶い出す詩』(1976年、書肆山田刊)、『定本 那珂太郎詩集』(1978年、小沢書店刊)、高橋睦郎『球体の息子』(1978年、小沢書店刊)、土方巽『病める舞姫』(1983年、白水社刊)など、近しい立場にあった他の詩人や表現者の著書の装幀を数多く手掛けており、プロと言っても差し支えないようなデザイナーの力量を持っていたと考えて良いだろう。さらに、吉岡が特殊なのは、詩集『液体』(1941年)以来、ほぼ全ての著書を自装しているだけでなく、時に「特装版」と呼ばれる通常版とは異なる豪華仕様の詩集を刊行していることである。具体的には、以下の詩集に特装版が存在している(小林一郎による「吉岡実書誌」を参照した)らしいのだが、実際にこれらの特装版を手にしていた果報者は一体誰だったのか、その制作費用は誰がどんな風に負担していたのかなど、もはや吉岡の死から30年近くが経過し、その裏舞台を知っている者も全て鬼籍に入ってしまったものと推測されるため、強く興味をかきたてられるところがある。
 
 
『神秘的な時代の詩』(初刊1974年・特装版1975年、湯川書房刊)
→表紙オリジナル版画、背革、定価記載なし、別丁毛筆署名、限定150部記番
『夏の宴』(初刊1979年、青土社;特装版1982年、南柯書房刊)
 →総革装、布貼函、定価記載なし、毛筆署名、限定15部記番
『ポール・クレーの食卓』(初刊・特装版1980年、書肆山田刊)
 →総山羊革装、装画片山健、本文用紙レンケルレイド、定価3200円、ペン書き署名、限定28部
『薬玉』(初刊1983年・特装版1986年、書肆山田刊)
 →背革、布貼函、本文用紙雁皮紙、定価記載なし、別丁和紙毛筆署名、限定40部記番
 
 
その吉岡は生前、四谷シモンや金子國義などが定期的に個展を開いていた銀座の青木画廊に良く出入りしており、そうした若い美術家たちとも親交を持っていたが、だからと言って(しばしばそれらの反時代的な表現者の作品を積極的に著書の表紙に用いていた)仏文学者の澁澤龍彦などとは異なり、自身の詩集の装幀に彼らの作品を使うことは無かった。唯一の例外として、詩集『サフラン摘み』(1976年、青土社刊)の外函及び表紙カバーと上記『ポール・クレーの食卓』の特装版に絵本作家・片山健が一時、絵本から離れていた時期に描いていた幻想的かつ背徳的な鉛筆画を装画として用いており、そこに絵画表現と詩との幸福な接近、共鳴関係が見られるという意味で、片山は『月に吠える』における田中恭吉と同様の役割を果たしていたと言ってもいいのかも知れない。
 
それから、1980年代に詩人二名・版画家二名の四名のメンバーにより、オリジナルの版画をその構成要素とする詩の同人誌が発行されていたという興味深い事実がある。具体的には、詩人の高柳誠(1950年〜)が小口木版を専門とする版画家の柄澤齋を装幀家に指名して、その第一詩集『アリスランド』(1980年、沖積舎刊)や第二詩集『卵宇宙/水晶宮/博物誌』(1982年、湯川書房刊)を出し、さらに同志社大学文学部時代の詩友であった時里二郎(1952年〜)が北川健次の銅版画を挿画として第一詩集『胚種譚』(1983年、湯川書房刊)を出したことによって形成されたこれら四名の交友の開始を契機として、ごく短期間でしかなかったものの、詩と美術が対等に競い合うポジションを取った同人誌『容器』(1984年〜1987年)が発刊されていた。その全ての体裁をデザインしたという柄澤によると、この同人誌では「一号はフランス装、二号は革表紙、三号はオブジェのようにアクリルの箱に入れた」(『現代詩手帖』2019年7月号・時里二郎特集における柄澤齋・時里二郎・藤原安紀子の対談より)といった思い切った試みがなされており、現在発行されている通常の詩誌とは明らかにスタンスの異なるこうした発行形態から、当時の高柳と時里がそれだけ美術の要素を最大限に尊重しながら詩作を行っていたことが想像出来る。そうした美術を重視する彼らのスタンスは、その後も様々な刊行物を通じて現在まで継続しており、その意味において、彼らは詩人でありながら、美術(的)表現も行う者、内面に「美術的なもの」を抱えた詩人であると言ってもいいのではないだろうか。
 

 Ⅵ.おわりに
 
 
今回、詩と美術の関係につき、両者との密接な繋がりを持つ様々な詩人や美術家の実例を見て来たが、改めて様々な表現者たちの多様な足跡を通覧してみると、図らずも冒頭で述べた仮説の通り、そもそも詩と無縁の美術、美術と無縁の詩など存在しておらず、単に各々の創作者の軸足が主にどちらのジャンルに置かれていたかという違いにより、周囲の者がその作者を「詩人」あるいは「画家」「彫刻家」「工芸美術家」「書家」などと分類して呼称しているに過ぎないのではないか、との思いを強くすることとなった。それは、ある意味で若い頃から一貫して美術と密接な関わりを持っていたこともあり、これを最大限に尊重する考えにより本稿を書き始めた自分の狙い通りであったとも言えるのだが、ここで自分自身のことを書かないのは一種の逃げであると言われかねないので、最後に自身の詩と美術に対する関わり方やそのスタンスについて、多少触れておきたい。
 
自分はまず、これまでに刊行した詩集の装幀上、第一詩集と第四詩集の二冊に著名な美術家の作品を用いている。具体的には、第一詩集『花泥棒は象に乗り』(2006年、ミッドナイト・プレス刊)の表紙カヴァーと別丁扉に今村紫紅の長巻絵巻「熱国之巻」(1914年、原富太郎旧蔵品、東京国立博物館蔵、重要文化財)のうち「暮之巻」の一部(沈みゆく日輪と人が乗った象が描かれた部分)を抜粋して掲載しており、さらに第四詩集『フラグメント 奇貨から群夢まで』(2019年、港の人刊)の外函には美術雑誌の編集長時代から付き合いのあった陶芸家・和太守卑良(故人)の「連蕾文器」の作品写真の一部をデザイン素材として(象嵌の焦茶色の部分を黒の紙=ディープマットブラック360kgの地色で表し、白い部分を銀の特色でその上に印刷して再現している)借用させてもらった。いずれも最終的なトリミングの仕方などは関わってくれたデザイナーに任せているものの、これらの作品を掲載したい旨の申し出も権利者への掲載許諾の交渉も当然ながら自身で行っている。
 
また、第二詩集『麗人と莫連』(2009年、芸術新聞社刊)における白い表紙カヴァーと別丁扉への詩集タイトル文字の型押し(エンボス)処理も、第三詩集『戦禍舞踏論』(2012年、土曜美術社出版販売刊)における表紙カヴァーと総扉の植物を配したデザインや、各章の扉とその対向ページに入れたアラベスク模様の採用も、全て編集者やデザイナーとかなり綿密に打ち合わせをした上で施したものであり、著者としてはいずれの結果にも満足している。裏を返せば、詩集の装幀に関しては、朔太郎や吉岡実などと同様に版元任せにはせず、その全てにつき、自分自身が必ず関与して何らかの意向を示し、これを反映してもらうようにして来たと言っていい。それは、自身の美意識の問題であり、あるいはこれまで編集者・鑑賞者として長く美術と関わって来たことにより培われた矜持の気持ちがそこに現れているのかも知れない。
 
また、自分の詩作品には、既存の美術作品そのものや、その作者あるいはそこに描かれた登場人物、超獣などをモチーフや素材としたものが数多く登場する。最も分かりやすいのは、尾形光琳筆「燕子花図屏風」(江戸時代、六曲一双、根津美術館蔵、国宝)をモチーフとした第一詩集収載の「燕子花」と、20世紀のイギリスの画家の諸作品をモチーフとした第二詩集収載の「フランシス・ベーコン」あるいは日本画家・菱田春草その人とその代表作の一つである「黒き猫」(1910年、永青文庫蔵、重要文化財)をモチーフとした「黒き猫—菱田春草試論」といった作品である。他にもそうした例は数え切れないほどたくさんあるのだが、ここではそれらの作品世界は自分にとって非日常ではなく、もはや無くてはならない日常になっているということ、それらは素材のように見えて、実は既に自分自身の内面の一部を構成しているということだけを述べ、以下にこれらのうち二作品を引用して本稿を終えたい。
 
 
貴方は一時期必ず逢いに来てくれましたね。冷たい五月雨が肩を濡らす日も、蜃気楼が立ち上るような初夏の強い日差しが照りつける日にも・・・。貴方はいつも疲れていて、全身に孤独感を漂わせながら、久方ぶりの邂逅を果たしたような目でずっと私のことを凝視めていてくれましたね。やがて私が艶やかに幾何学模様の舞いを舞う姿に気づくと、思わず目を細め、優しげな表情をたたえながら、私のこといきなり抱きすくめるのではないかと思う程、近づいて来てくれましたね。私は私で貴方に見つからないように、舞台の袖に隠れたり、唐突に中央に進み出て一気呵成に咲き誇る姿を見せたりして・・・。
 
やがてある時、貴方は私の目の前に小さな女の子を連れて来たのですよね。私の着物の群青や緑青の色使いの希少性のこと、幾何学模様の舞いの自由自在さのことなどを目を輝かせながら話されていて・・・。
 
あの子に、どこまで分かったのかしら。でも私はとても嬉しかったのですよ。貴方がもう本当に孤独ではなくなったことが分かったから・・・。
 
(秋川久紫『花泥棒は象に乗り』所収「燕子花」全文)
 
 
背信の朝まだき
暖色の湖水に浮かぶ
歪んだ球体の輪郭が
次第に不確かなものとなり
畏怖と哄笑の只中で
液化した災禍たちが
心音のリズムを刻むようにして
ゆっくりと流れ出してゆく
 
不安の概念を
消し去るようにして
鳥たちは交歓し
埃にまみれた
生成りの画布を前にして
女たちは加担をためらい
やがて加担の枠組みそのものを放棄する
 
きらびやかな法王の寝台に横たわる
不敵の下手人は
静謐の衣装をまとったまま
果てのない眠りの中に
紛れ込もうと画策し
追憶の回路の
腐乱の形態に弄ばれたのち
いつしか冷たい暗室の裏手にある
秘匿された地下階段を
まるで弧を描くようにして
美しく軽やかに落下していくのだ
 
(秋川久紫『麗人と莫連』所収「フランシス・ベーコン」全文)
 
 
 
<参考文献>
 
『槐多の歌へる』(村山槐多著、1920年、アルス刊)
『日本への回帰』(萩原朔太郎著、1938年、白水社刊)
『美について』(高村光太郎著、1941年、道統社刊)
『萩原朔太郎全集』(1975年、筑摩書房刊)
『四百字のデッサン』(野見山暁治著、1978年、河出書房新社刊)
『現代詩読本—8 萩原朔太郎』(1979年、思潮社刊)
『一角獣の変身』(1986年、青木画廊刊)
『現代詩読本 吉岡実』(1991年、思潮社刊)
「萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや」(1994年、新潮社刊)
「絵は語る12 与謝蕪村筆 夜色楼台図—己が人生の表象」(早川聞多著、1994年、平凡社刊)
『生誕110年・没後20年記念展 小野竹喬』展覧会図録(1999年、毎日新聞社刊)
『詩情のオブジェ 鈴木治の陶芸』展覧会図録(1999年、日本経済新聞社刊)
特別展『対決—巨匠たちの日本美術』展覧会図録(2008年、朝日新聞社刊)
角川ソフィア文庫『芭蕉全句集』(松尾芭蕉、雲英末雄、佐藤勝明著、2010年、角川学芸出版刊)
『ユリイカ』臨時増刊号 総特集「野見山暁治 絵とことば」(2012年、青土社刊)
『泥象 鈴木治の世界』展覧会図録(2013年、日本経済新聞社刊)
『野見山暁治 いつかは会える』展覧会図録(2014年、ニューオータニ美術館刊)
『SIMONDOLL 四谷シモン』展覧会図録(2014年、求龍堂刊)
『生誕300年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村』展覧会図録(2015年、読売新聞社刊)
『画家の詩、詩人の絵/絵は詩のごとく、詩は絵のごとく』(2015年、青幻舎刊)
新・日本現代詩文庫122『三好豊一郎詩集』(2015年、土曜美術社出版販売刊)
『高柳誠詩集成Ⅰ』(高柳誠著、2016年、書肆山田刊)
『現代詩手帖』7月号 特集Ⅰ「時里二郎—『名井鳥』を訪ねて」(2019年、思潮社刊)
 

 

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