アーカイブ連作「綵歌」解説

 *4月

   詩「霏霏」をめぐって

                                    河津聖恵

  ここ二、三年、江戸時代中期の絵師伊藤若冲の絵をモチーフに、連作詩を書いている。
   二百数十年後の現在、若冲の絵をめぐって詩を書くこととは、どのようなことなのだろう。自分はなぜそのような試みを続けているのか。
  最初から連作を意図していたわけではなかった。一作一作作りながら、なぜ若冲なのかを考えて続けている。それは、鮮やかな「神気」あふれる絵に詩を触発されようとする自分自身にひそむ欠如とは何か、という問いでもある。つまりこの今だから、この私だから若冲なのだ。

   思えば始まりは、ある日曜日、家のインターホンが鳴った時だったかも知れない。かなり前のことだ。休日の昼下がりのこんな時にと思いながら、ドアを開けると一人の見知らぬ初老の男性が門扉の外に立っていた。野球帽にリュック。服装の記憶は曖昧だが、史跡巡りだなと一眼で分かる律儀な印象の軽装だ。背はぴんと伸びていた。「何でしょうか。」「この辺りに伊藤若冲のお墓があるそうですが、どこでしょうか。」伊藤若冲?  あの絵師の? 最近テレビで特集番組をやっていて、京都のどこかのお寺にお墓があるのもそれで知った。でも南の方だなと思った記憶がある。この辺りでいつもお墓を訊かれるのは、隠遁後文人として名を馳せた某武将だ。もしかしたら間違えている?  だが若冲だと主張する。まだ若冲をよく知らなかった私は、「もっと南の方ですよ」と言うしかなかった。「えっ、南なんですか」律儀に礼を述べて踵を返した男性は、その後無事伏見区にある石峰寺に辿り着いただろうか。しかしなぜちょうど石峰寺と南北を逆転した位置にあるここに、その人は迷い込んでしまったのか。まさかと思うが、地図を上下逆さまに読むまま辿って来た?   確かに手にしていたのはスマホではなく地図のだったと思う。「南ですか」と驚いたその人は落胆の色もなく、ぴんと伸ばした背中のまま元来た道を戻って行った。
  いずれにしてもその時が、生誕三百年のブームの前に、「伊藤若冲」の名前が私に、特別なものとして刻印された最初だった。

  初めから連作を意図したわけではなかった。男性が訪ねて来てから、どのくらいが経った頃だろう。最初に書いたのは今回アップした「霏霏(注:「ひひ」とは雪が絶え間なく降るさま)」。ある個人誌から作品の依頼があり、部屋で何を書こうか思い悩んでいた冬の朝、ふと後ろを振り返ってみて、あっと思った。いつしか窓の外に暗い空からぼたん雪が降りしきっている。隣地の廃された果樹園から塀越しにこちらへ伸びる雑木の枝に、もう湿った雪がふりつもっていた、湿って柔らかに枝におおいかぶさる雪は、輪郭が不定形で、練ったもののようにところどころ穴がひらきーこれは、あれだ、と思った。あれ、あれと思うと、やがて記憶の奥から像が浮かび上がって来た。伊藤若冲の絵の雪だった。形態としては最も「雪中錦鶏図」の雪に近かったが、なぜか芦に積もった雪を散らして、落下する雁を描いた「芦雁図」のほうが思い起こされて来たのだ。そもそもいつ自分がその絵を見たのか。その頃は生誕300年を控え、あちこちで若冲の名が喧伝されていたがまだ展覧会は始まっていない。私はもうポケット版の画集を買って、来るべき本物との出会いに備えていたのかも知れない。いずれにしても有名な鶏の絵や象の絵より、「芦雁図」につよく心惹かれたのは事実だ。

「 画面のなかに実物以上に大きく描かれた雁は、ほとんど墜落しているとしか思えない。この異様な描き方に対して、若冲の「死の不安」を見いだそうとする研究者もいる。若冲が「動植綵絵」二十四幅を相国寺に寄進する直前に、末弟の宗寂(そうじゃく)が急死した。それ以後に描かれたと考えられる本図には、そうした若冲の心の動きが反映していると見るわけである。芦の葉や茎のうえに降り積もった雪は、「雪中鴛鴦図」より、その粘液性が徹底されている。」
  (狩野博幸『目をみはる伊藤若冲の『動植綵絵』』77頁)

  拙詩「霏霏」もまた、「画面のなかに実物以上に大きく描かれた雁」の、「墜落しているとしか思えない」落ち方に受けた衝撃が、私の無意識にずっと鈍く残っていたことを証しているのだと思う。背後を振り返って目に飛び込んで来た「若冲の雪」がその感情のわだかまりを触発して浮かび上がらせた。それを詩の言葉が一つの情景へとほどいていったのだ。「感情のわだかまり」とは、恐らく雁がその大きさで見せつける「死の欲望」である。私にも人並みにとうぜんあり、若冲にはもっと肌身に迫るものとしてあっただろう。それが、二百数十年の時を越えて、雪の質感を介してそくそくと伝わって来た。詩はそのふるえから生まれた、と言ってみたい。

*5月
詩「紅の匂い」をめぐって
                             
                                  河津聖恵
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この連作のタイトルは「綵歌」です。お分かりになる人も少なくないと思いますが、これは若冲が1758年(宝暦8年)頃から着手し、ほぼ10年近くをかけて完成した30幅の花鳥画「動植綵絵」のもじりです。安易な着想ですが、やはりタイトルには若冲の絵へのオマージュという意味を込めたかったので、今のところこれでよしとしています。将来連作を書き終えた段階で、新たなタイトルが生まれるやも知れません。ただ詩のモチーフは、「動植綵絵」の絵に限ってはいません。他にも魅力的な作品がたくさんあるし、「動植綵絵」で描かれた動植物は、重複するものが多いからということもあるしと色々理由を付けては、その時々の自分の気持に合う絵を選んでは、気ままに書いているところです。

若冲の連作「動植綵絵」は、今見ても大変色鮮やかな彩色画です。極上の膠絵具と筆と絹地を使っているということもあるでしょう。自分の絵は三百年後にやっと理解されるだろうとどこかで語っていたそうですが、絵の隅々まで未来の人の眼差しを感じながら描いていったのでしょうか。

しかしこの『動植綵絵』三十幅は、未来の人間にというより、まずみ仏に捧げられたものでした。そのことは、今の私たちがとくに留意しなければならないことかも知れません。決して未来の世評を獲得する「野心」などによるものではないのです。そもそも若冲は近代の画家ではなく、あくまで近世の絵師。それゆえその絵は近代を乗り越える未知の力を秘めているように思えます。

「私は常日頃絵画に心力を尽くし、常にすぐれた花木を描き、鳥や虫の形状を描き尽くそうと望んでいます。題材を多く集め、一家の技となすに至りました。また、かつて張思恭の描く釈迦文殊普賢像を見たところ巧妙無比なのに感心し、模倣したいと思いました。そしてついに三尊三幅を写し、動植綵絵二十四幅を作ったのです。世間の評判を得ようといった軽薄な志でしたことではありません。すべて相国寺に喜捨し、寺の荘厳具の助けとなって永久に伝わればと存じます。私自身もなきがらをこの地に埋めたいと願い、謹んでいささかの費用を投じ、香火の縁を結びたいと思います。ともにお納め下さいますよう伏して望みます。」(1765年にまず二十四幅を納めたときの寄進状。佐藤康弘『伊藤若冲  生涯と作品改訂版』より)

「世間の評判を得ようといった軽薄な志でしたことではありません。すべて相国寺に喜捨し、寺の荘厳具の助けとなって永久に伝わればと存じます」。この言葉からも、若冲の深い信仰心が窺えるのではないでしょうか。その信仰は決して、狩野派のような形式を重んじて生命力を封じてしまうものではない。若冲は、動植物を写生し、そこから自身の幻視の眼差しによって、それぞれの生き物が放つ「神気」を色と筆致で捉え、生命力あふれる生き物たちの姿こそをみ仏に捧げようとしたのです。そのような絵師の眼差しへの想像力を、21世紀という近代の果てにいる私たちこそが養わなくてはならないのかも知れません。

 佐藤康弘氏によれば、そもそも「綵絵」とは「単に彩色の絵というだけでなく、だれかの供養のために仏画を作るという行為」ではないかということです。若冲がつけたこのタイトルは、シンプルですが、信仰心と共に若冲自身の誰かへの深い追悼の念を表したものなのです。

「若冲が「釈迦三尊像」と併せて「動植綵絵」を寄進したのは注意を要する。相国寺では広間の中央に「釈迦三尊像」を掛け、その左右に「動植綵絵」を掛ける、という並べ方をずっと法要に用いていた。「動植綵絵」は花鳥画なのだが仏画との関連が強いのである。「動植綵絵」という特別な名称は、動植物を描くことでだれかを供養する綵絵と考えるべきだろう。それはやはり若冲が23歳のときに亡くした父親ではなかったか。」(前掲書)

この文章に続けて佐藤氏はその具体的な根拠も挙げているのですが、それは省きます。

若冲は1765年に二十四幅を寄進した翌年に、自らの寿蔵(注:生前に自分で建てるお墓)を建て、その年のうちに、恐らく残り六幅を追加しました。そして三十幅の寄進は終わるのですが、この三十幅寄進というのも、最初から若冲は計画していたのです。父の死と、自身の(生前の)死。父への供養とこれまで「動植綵絵」に絵師の命を尽くして来た自身への供養。父と自分自身を共にみ仏へ、生命あふれる花鳥の力を借りて捧げたのでしょうか。

一方この「動植綵絵」の鮮やかな「神気」を可能にしたものが、濃厚な死の意識の存在であったことにも思い至らなくてはなりません。都市の繁栄のかげで生まれる貧窮者の増加、頻発する放火による大火、洪水や台風や地震などの自然災害、疫病、公家に尊王論を説いた竹内式部が幕府に処罰された「宝暦事件」など、京都に起こった数々の悲惨な現実が、若冲の心に落とした暗い影が、「綵絵」の生命力の逆説的な背景としてあったのは間違いないでしょう。

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「紅の匂い」は、「動植綵絵」の中の一幅「南天雄鶏図」(1761年から1765年頃)に触発されて書いた詩です。同時期に描かれた「動植綵絵」の絵は、「画面を埋め尽くすようなモチーフの増殖と、画家の情念の噴出と見える造形が特徴的」(佐藤氏、前掲書)だそうです。とりわけこの絵の「黒い軍鶏の攻撃性と赤い南天の実が分裂していくさまとは、まさに典型といえる」と佐藤氏は評しています。つまりこの絵は、「動植綵絵」の中でも若冲の情念がもっとも鮮やかに表現されている絵なのです。私もこの絵は、若冲の絵の中で、最も生命力に満ち溢れている絵だと思います。

この絵を見た人は誰しも、まず南天の紅の美しさにつよい印象を受けるのではないでしょうか。南天の実のこちらの目を射るほどの立体感は、裏から辰砂(水銀の化合物の染料)を、表から赤い染料を施すことで生まれているそうです。そしてこの赤い南天は、その鮮やかな発色によって、黒い軍鶏の存在感と拮抗しています。あるいは、私にはそれらは共に絵の中にはない、遥か外部にある何かと「戦っている」ようにすら見えるのです。詩「紅の匂い」にある「一瞬の戦争」という表現は、(後付けですが)私のそのような印象から生まれたものです。

「紅の匂い」。そう、私にはこの紅がただの色とは思えませんでした。これは「匂い」だしか言えないものだったのです。そしてそれは古語にある意味での「匂い」なのです。以前古語辞典で現代語の「匂い」と違う、古語の「匂い」の使い方を知りましたが、それは彼我の感性の違いを象徴する言葉として、私の記憶に刻まれていました。

「古語の「にほふ」ー色がひときわ美しく人目に立つ意。視覚にも嗅覚にも使うが、古くは視覚的な意味が中心であった。「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」〈古今・春上〉の「匂ひ」は嗅覚の意味で用いているが、これも美しいという意味が中心である。(略、改行)古語で、色彩的な美しさを表すのに「匂ふ」といった動詞を用いたのは、美しい状態をその物の動きとしてとらえたということで、古語での物事のとらえ方の特徴がある。現代語で「匂う」が視覚中心になるのは、香りや臭気はその物が源となって発散されるが、視覚的な美しさは人が感じるものであって、その物の動きとは認め難いと考えられるようになったことの結果であって、時代の人のとらえ方が現れている。」(『旺文社古語辞典』第十版)

つまり古えでは、色の美しさを、人が主体となって鑑賞するものではなく、物という主体から発散するものとして感じ取っていたということです。それはまさに、若冲の言う「神気」ではないでしょうか。南天は今でも「魔除け」として庭や玄関先に植えられていたりしますが、この絵の南天の鮮やかさは異様です。若冲が自分自身や時代の死を払いのけようとしたがために裏彩色まで施して、非現実的なまでに発色させたのではないでしょうか。軍鶏もまた、闘おうとしている。「赤色巨星」は、やはり「動植綵絵」の一幅である「老松白鶏図」(1760)の右上隅にその一部を描きこまれた赤い太陽をイメージしています。「老松白鶏図」では番いの白鶏が描かれていますが、そのうち雄鶏が赤い太陽に向かって鬨の声を上げています。「南天雄鶏図」ではその太陽をさえ絵から押し出され、それゆえ雌鶏の寄り添う余地もなく、ただ雄鶏が黒い体躯を満面にさらし、「偽りの世」を引き裂く声で言挙げをしているーー私にはこの絵の鮮やかな紅は、そう「聞こえた」のです。

*6月
連作「綵歌」解説 第3回
    詩「髑髏」をめぐって

                                    河津聖恵

 
2016年、翌年に伊藤若冲の生誕300年を控えて各地で若冲展がひらかれました。

京都でも秋に京都市美術館で開催され、私も訪れました。

その時はとにかく人が多かったという印象です。しかも皆大変熱心に見つめてなかなか作品の前から動かず、記憶をたどっても人気のある鶏の絵などは、人の頭ばかりで全貌をきちんと見られなかった気がします。

そんな若冲展で全体像をはっきり見たと言える数少ない作品の一つが、「髑髏図」。

たしか京都から大阪までの船旅の風景を描いた長い画巻の「乗興舟」のそばに二幅掛けられていたと思います。

「髑髏図」も「乗興舟」もともに拓版画と呼ばれるものです。拓版画は、後で引用する佐藤康宏さんの文章で説明されていますが、刷るのではなく、「表に墨をつける」ので、墨の漆黒の艶やかさが生かされる技法です。

美術館の片隅で初めて見た私も、その墨の黒色の官能的な美しさに思わず引き込まれ、しばらく佇んでいました。(幸いなことに、そのコーナーの前だけなぜか人だかりがなかったということもあって。まさに贅沢なブラックホールに呼ばれたように?)

ただこの若冲は墨つけまで手がけたわけではなく、下絵を描いただけのようです。実際墨つけを手がけたのは、若冲とゆかりの深い万福寺の渡来僧だったと読んだ覚えもあります。いずれにしても、それは他人任せにしたというのでなく、第一に作品の完成度を求めた若冲の絵師としてのこだわりの強さを表しているでしょう。

「髑髏図」は「乗興舟」の7年前の1760年に制作されました。1758年から始まった「動植綵絵」の制作と重なる時期です。つまり絵師は同時期に「動植綵絵」の色鮮やかさと、その対極にある墨と余白だけの世界に挑んでいたのです。これはとても面白く、興味深いことだと思います。

 「乗興舟」についての、拓版画の説明も含む佐藤康宏さんの文を参考までに引用します。

「若冲は、版画においても瞠目すべき業績を残した画家である。彼は、「乗興舟」、「玄圃瑶華」、「素絢帖」、そして仮に「着色花鳥版画」と呼ばれる揃い、の少なくとも四種類の下絵を描いた。このうち初めの三点は、拓本を取る手法に似ているところから、相見香雨氏が拓版画と名づけた異色の技巧から成る(「若冲の拓版画」、『芸術新潮』六巻九号、一九五五年)。通常の木版画とは逆に、下絵を裏返しにせすそのまま版木に当て、余白ではなく描線の部分を彫ってへこませ、彫り終えた版画に料紙を載せ、表から墨をつけていくのである。その結果、彫った図が紙に白く残り、地は墨を載せて黒く輝く陰画(ネガ)のような画面ができあがる。さらにぼかしの技法を併用した「乗興舟」の絵肌の美しさは、木版画の〈黒の技法(マニエール・ノワール〉とでも呼びたくなるほどだ。」(『名宝日本の美術27 若冲・蕭白』小学館)

「乗興舟」についてはやはり連作「そのうちあらためて取り上げたいと思いますが、こちらは黒白の対比だけでなく、中間色の灰色が友禅染の技法で絶妙にぼかされ、春の川下りの時空の移り変わりを見事に表現した、幻想的な作品です。一方「乗興舟」に比べて「髑髏図」は、黒白の対比のみで、ぼかしの部分は一切ありません。髑髏も平面的に絵に貼りついているようにさえ見えます。まだ拓版画の技法の初期段階だったからでしょうか。しかしそれゆえ髑髏としての不気味さより髑髏のかたちの面白さが際立つ効果がたしかにあると思います。

「髑髏図」の段階では、拓版画でのぼかしの技法を若冲はまだ発見していなかったのかも知れません。しかし髑髏を包み込む闇を果てしなく深める墨の美しさは圧倒的です。闇は髑髏を包み込むというより、髑髏から発散されているように私には思えました。それは何もかもを吸い込む鏡のように輝いているのだとー。

「髑髏は泣いてなどいない
見る者が吸われるほど見事に広がる無の鏡のごとき闇を
その存在からあふれ出させている」(「髑髏図」)

  しかし、なぜ髑髏という普通人が恐れるモノを若冲は題材に選んだのでしょうか。若冲は他にもいくつか「髑髏図」を制作していますが、最晩年に描かれた墨画は、何かとても寂しく、自分の生命力が弱まっているという絵師の自覚が否が応にも伝わってくるものでした。

しかしこちらの「髑髏図」は「動植綵絵」を描いている時期に制作されたもので、年齢もまだ45歳で身辺に色々ありながらも絵師としての仕事は佳境を迎えた頃。そうした背景から考えてみると、若冲は、画のモデルとなった眼前の髑髏というモノの存在感に、むしろ尽きることのない闇の生命力を感じ取ったのではないかという推測も可能なのではないでしょうか。

狩野派のように手本を模写するのではなく、実物を描くことで物の「神気」を捉えようとした若冲。だから髑髏から言わば「ノアールな神気」を感受したのかも知れません。

あるいはひょっとしてですが、「拓版画」という技法を手中にしたことで、若冲は、この技法を生かせる対象を探して、髑髏というぴったりのモノを見つけ出したのかも。。

いずれにしても若冲は髑髏という「オブジェ」をどこから手に入れたのでしょうか。詩「髑髏」の終結部は、もしかしたら刑場の近くの竹やぶ辺りからではないか?!という私の逞しい?妄想にもとづくもので、もちろん真実はそれこそ「藪の中」です。それでも妄想の根拠ならぬ発生源が実はあります。

ある日、若冲の家族の墓のある宝蔵寺界隈を歩いていた時、ふと突き当たりの片隅に古い碑があるのが目にとまりました。「医学発祥之地 山脇東洋顕彰」。「山脇東洋」は杉田玄白よりも前に活躍し、若冲よりもやや年長の医学者です。

どうやら若冲の生きていた時代、碑の辺りはかつての獄舎のゆかりの地で、そこでは囚人の死体解剖もおこわれたそうです。碑は、山脇東洋による日本初の人体解剖もここで行われたとの記念碑だったのです。

若冲の「髑髏図」は、この碑の示す同時代の人体解剖の事実と、関係はないのでしょうか。この碑を発見した時以来、私の妄想は深まっています。

「この世からごろんと捨て置かれたものが恋しくて
絵師はさまよい歩いていた
気づけば刑場近くの竹林で
風が吹き声々がざわめいた
この世からごろんと捨て置かれて
絵師は竹林の闇へ一人分け入っていった」
                                  (「髑髏図」)

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