詩と美術の関係について

             秋川久紫


Ⅰ.はじめに
 

詩と美術の関係について語ろうとする時、2015年から2016年にかけて、五つの地方美術館——平塚市美術館、碧南市藤井達吉現代美術館、姫路市立美術館、足利市立美術館、北海道立函館美術館にて開催・巡回された『画家の詩、詩人の絵』というタイトルの展覧会でなされた試みについて触れない訳にはいかないだろう。本展は主催者の中に大手メディアの一つである読売新聞社が、協賛者の中に同じく日本テレビ放送網が名を連ねているものの、いずれも比較的、マイナーな美術館で開催されたため、余り大々的に広告宣伝がなされることもなかったせいもあり、自分自身も閉会してしばらくしてから本展の存在を知ったような状況であり、実際にこれを観ている訳ではない。
 
ただ、その公式図録を兼ねた書籍(青幻舎刊)を古書として入手し、そこに掲載されたたくさんの図版を眺め、さらに手書きの草稿写真を含む多くの詩作品を読んでみると、受け手(読者・鑑賞者)にとっては全く別のジャンルとして独立している詩と美術の関係が、書き手あるいは描き手(作者)の内部においては元々、融合、一体化していたのではないか、と思えるほど近しいものであったことに気付かされる。
 
本展を企画した平塚市美術館・館長代理の土方明司は、古代ローマ詩人・ホラティウスの「詩について」(紀元前18年頃)の一節をヒントとして、この展覧会に「絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」というサブタイトルを付しているのだが、この図録にしてはコンパクトなA5サイズの分厚い書籍を観ていると、そもそも詩と無縁の美術、美術と無縁の詩など存在しておらず、単に各々の創作者の軸足が主にどちらのジャンルに置かれていたかという違いにより、周囲の者がその作者を「詩人」あるいは「画家」「彫刻家」「工芸美術家」「書家」などと分類して呼称しているに過ぎないのではないか、との仮説を立てたい気持ちになって来る。
 
また、明治末期から昭和初期にかけて、現在の東京都北区田端周辺に、この地から東京美術学校(現東京藝術大学)に通う若い美術家たち—画家の小杉未醒(放庵)、陶芸家の板谷波山、彫刻家の建畠覚造、金工作家の香取秀真などと、自らこの地を選んでやって来た黎明期の若い文学者たち—芥川龍之介、室生犀星、萩原朔太郎、堀辰雄、中野重治、菊池寛、林芙美子、小林秀雄などが居住し、戦災までの僅か数十年の期間でしかなかったにせよ、田端文士村と呼ばれる芸術家の交流の場が形成されていたという極めて興味深い事実がある。その中心人物であった芥川は、アララギ派の歌人でもあった香取と親交を持ち、さらにその才能を認め、強くシンパシーを感じていた朔太郎とも交友して、詩と美術が互いに刺激し合う関係性の中に積極的に介在する役割を果たした。
 
しかしながら、そうは言っても、詩と美術の双方の表現手段に継続的に関わっており、いずれの表現手段においても傑出した作品を残したと言い得る者、言わば表現世界において、二足の草鞋を履くことを貫徹した者は決して多くはない。裏を返せば、ほとんどの表現者が、その内面に「美術的なもの」を抱えながら詩を書き、「詩的なもの」を抱えながら美術作品を生み出してはいるものの、その軸足の所在を注視してみると、いずれか一方のジャンルのみに置かれているケースが大半なのではないだろうか? 例えば、パブロ・ピカソも一時期、1935年から約四半世紀にわたって詩を書いており(年譜によると、吉岡実は18歳当時の1937年、美術雑誌『みづゑ』に掲載されたピカソの詩に啓示を受けている)、萩原朔太郎も「仏蘭西製のステレオスコープ」を用いて、味わい深い写真を大量に撮っている(1994年、新潮社刊「萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや」参照)ものの、ピカソはどうしたって絵画・陶芸・彫刻を手掛けた不世出の美術家でしかなく、〈現代詩の母〉とも称される朔太郎は、誰が見たって二度と現れないような唯一無二の詩人だ。
 
そこで、今回の論考では、詩(ここでは、俳句・短歌等を含む短詩表現の全般を指すものとする)と美術の関係につき、①作者自身がいずれにも比重を置くことなく、双方の表現手段の創作に継続的に関わっており、いずれのジャンルにおいても傑出した作品を残している場合と、②作者自身は基本的にいずれか一方の表現手段に軸足を置いて創作活動をしており、もう一方の表現手段はその軸足を置いて創作している作品の触媒もしくは表現上の契機・起点として位置付けられていたり、あるいは作品のモチーフそのものとして扱われていたり、さらには装丁・挿画・賛(東洋画や浮世絵などの上部空白に書き加えられる詩歌や文章のこと)など、その副次的・補完的・付加価値的な表現手段として「添えられている」に過ぎなかったりする場合との二つのケースに分けて、両者の関係を見ていきたいと思う。
 
因みに、上記の『画家の詩、詩人の絵』の対象として選ばれた作品は、明治期以降の日本国内の表現者のものに限られているため、海外の表現者のものや、国内であっても江戸時代以前のものには全く触れられていない。美術館で行う展示には、貸出許可の問題や、そもそも展示に適しているかなどの観点から、どうしても企画自体に時代や地域、作者の限定などを行わざるを得ない面があり、こうした制限がなされてしまうことは、ある意味で仕方がないところもあるのだが、これに対して、文章表現による論考には基本的に何らの制限もないため、ここではそうした制限を取っ払って(と言っても、所詮、自分の知らないことは書けないため、筆者の知覚の及ぶ限りといった限定がつくこととなり、結果的に大きく変わらないものになる懸念もあるが)、この論点につき、出来るだけ時代や地域の制限のない地点に立って書いていきたい。
 

 Ⅱ.いずれのジャンルにおいても傑出した作品を残した者
 
 
まず、作者自身がいずれにも比重を置くことなく、双方の表現手段の創作に継続的に関わっており、いずれのジャンルにおいても傑出した作品を残している例として、銅版画や書籍の挿画・水彩画などを制作した画家であり、同時に『天国と地獄の結婚』(1790年)、『無垢と経験の歌』(1794年)などの詩集と、預言書『ミルトン』(1804年〜1810年)を刊行して詩人としても認知され、後世の多様なジャンルのクリエーターたちに多くの示唆とインスピレーションを与え続けた幻視者・ウイリアム・ブレイク(1757年〜1827年)、曹洞宗の禅僧として長く独居の生活を営みながら、多くの優れた書と漢詩・和歌・俳句を残した大愚良寛(1758年〜1831年)、映画「恐るべき子供たち」(1950年)の原作(1929年)・脚本や「オルフェ」(1950年)の脚本・監督を務めた美術家・劇作家であり、さらに詩人・小説家でもあったジャン・コクトー(1889年〜1963年)、そして、十代で短歌により文壇デビューを果たし、若い頃から詩・短歌・俳句を継続的に書く一方で、31歳の時に旗揚げした劇団天井桟敷を主宰して多くの前衛演劇・映画を自ら上演・制作した寺山修司(1935年〜1983年)の四人の名前が想起される。殊に、寺山が映画「田園に死す」(1975年)において、自身の同名歌集(1965年)の作品を半ば暴力的にスクリーンの中に挿入し、文字通り、自画自賛とも言える試みを果敢に行ったことは極めて印象深く、それは受け手にとってはいつしか分離してしまった美術と詩とが、一種の〈総合芸術〉とも言われる映画の中で表現として結合し、その境界が無くなって渾然一体化した本来の姿を世に問うものでもあったようにも思われる。
 
さらに、俳人としても画人としても極めて優れた作品を残し、文学史と美術史の双方に大きな足跡を刻んだ与謝蕪村(1716年〜1784年)の存在を忘れてはならない。「春の海終日のたりのたり哉」「五月雨や大河を前に家二軒」といった誰でも知っている有名な句を詠んだばかりでなく、「俳人蕪村」(1895年)を書いた正岡子規や「郷愁の詩人 与謝蕪村」(1936年)を書いた萩原朔太郎などを始めとして、近代の詩歌表現に決して少なくない影響を与えた蕪村は、一方で「夜色楼台図」(江戸時代、個人蔵、国宝)や「十宜帖」(池大雅作「十便帖」との合作画帖、1771年、川端康成記念館蔵、国宝)、暴風と対峙する一羽の鳶と雪景の中に佇む二羽の烏を対比させた「鳶烏図」(江戸時代、北村美術館蔵、重要文化財)、銀地に墨で描いた佳品「山水図屏風」(1782年、MIHO MUSEUM蔵)などの傑作を残した一級の画人でもあった。
 
長く主に琳派の障壁画や金屏風などの名品と、遊女や町娘などの姿を描く浮世絵版画ばかりを愛して来た自分にとって、池大雅、渡辺崋山、富岡鉄斎などに代表される文人画あるいは南画と呼ばれる類いの絵画はどちらかと言えば苦手であり、実を言うと、若い頃に最初に大雅との合作画帖「十便十宜帖」を観た時点では、蕪村がそれほど優れた画人であるとは思えなかった。ところが、2008年に『対決—巨匠たちの日本美術』展(東京国立博物館)において、当時は未だ重要文化財であった「夜色楼台図」(2009年に国宝指定)と「山水図屏風」の実物を目にした時(その背景には、自分がそれなりに歳を重ねて来たということもあると思うのだが)、その蕪村が如何に優れた画人であったかを瞬時に理解することになった。それは自分の美術鑑賞の歴史の中でも滅多にないような特筆に値する出来事であったのだが、それ以来、自分は蕪村を「俳人」枠の中だけに収めておくことは大変に礼を失することであり、むしろ許されないことではないか、とすら考えるようになった。
 
それからもう一人、双方の表現に継続的に関わっていた重要な作者の一人として「西郷隆盛像」(1897年、上野恩賜公園)や「楠公像」(1900年、皇居前広場)など、公共銅像の制作者である仏師・彫刻家の光雲を父に持ち、木彫「鯰」(1926年、東京国立近代美術館蔵)やブロンズ「手」(1918年頃、同館蔵)、銅像「乙女の像」(1953年、十和田湖畔)などの彫刻作品を制作する一方で、『道程』(1914年)や『智恵子抄』(1941年)など、詩史を語る上で決して外すことの出来ない重要な詩集を残し、〈現代詩の父〉とも称される高村光太郎(1883年〜1956年)を挙げない訳にはいかないだろう。(冒頭に挙げた『画家の詩、詩人の絵』展には、光太郎の絵画作品は紹介されているものの、本来、極めて重要であるはずの彫刻作品が出展されておらず、「絵」という制限の中でのみ、この企画が進められており、造形作品を対象としなかったことが残念でならない)
 
ただ、意外なことに、光太郎本人は「自分と詩との関係」(1938年、1941年刊『美について』所収)と題したエッセイにおいて「私は何を措いても彫刻家である」「私は自分の彫刻を護るために詩を書いてゐる」「自分の彫刻を純粋であらしめるため、彫刻に他の分子の夾雑して来るのを防ぐため彫刻を文學から獨立せしめるために、詩を書くのである」と述懐しており、少なくとも、55歳頃(智恵子との死別直前かつ太平洋戦争開戦の三年前)の当人の意識としては、飽くまで彫刻の方に軸足が置かれており、詩はその補助的な手段としてしか位置付けられていなかったらしきことが判る。だが、この述懐は一種の表現者としての苦悩の表出であり、二つのジャンルの間を行き来し、双方の表現において一流であろうとした光太郎にとって、一種の一時避難的な境地に過ぎなかったのではないか、と思えなくもない。
 
何故なら、残された作品の自律性や求道性、その後、政府の要請により、戦意高揚の役割を果たす多くの戦争協力詩を書き、さらにその反省から、戦後に岩手県花巻近郊の寒村にて七年間に渡る独居生活を営む中で『暗愚小伝』(1947年)や『典型』(1950)の詩稿を書いたことも含めたその詩作品の歴史的な意義に思いを巡らすと、この本人の太平洋戦争の前夜かつ智恵子の病没前における考えとは無関係に、高村光太郎の表現世界は父の光雲から技術を承継した彫刻と、自身で始めた詩との双方にほぼ均等に軸足が置かれていたものと考えざるを得ないからであり、半世紀以上も前に終了した高村光太郎賞(1957年〜1967年)の表彰対象が造形部門と詩部門とに別れていたという事実からも、恐らく、こうした判断に異を唱える者はいないであろう。
 
また、その研究生時代、自身の制作工房に出入りしていたことから、光太郎と親交があり、1919年に22歳で夭折した日本美術院の洋画部(1920年の小杉未醒(放庵)の脱退と他の所属画家の退会により解消され、現在は存在しない)に所属していた村山槐多(1896年〜1919年)もエネルギッシュな油絵を描く一方で、まるで本能と迸る汗の流れに任せて書いたかの如き多くの詩作品を書き残しており、その死後に出版された100篇を優に超える作品を収めた600ページに及ぶ大著『槐多の歌へる』(1920年)を読む限り、詩と美術の双方に均等に軸足を置いていたと考えて良い存在であったように思われる。
 

さんらんたる藝術の中に
われ坐す
ぜいたくに、
強烈に、
執拗に、
深刻に、
 
(『槐多の歌へる』所収、1917年「歩く屍」より)
 
 
例えば、上記の詩行は『画家の詩、詩人の絵』展にも紹介されているものであり、他の断片に用いられている「痩せた醜くい屍體」「燃え狂ふ渦卷」「猛々しき思ひの走驅」といった詩語や、「愛する女」「空き地に立つて居た娘」「立ちん坊」「小杉夫人」など、何人もの女性が登場するこの作品は、全体としては、恋愛と性欲の相剋に悩む自意識過剰な若者の内面の叫びとでも言うべき表現でしかない(元となっている体験自体はどこにでもあるものであり、ありふれている)とは思うものの、ここにはその槐多の絵画作品と同様に、有無を言わせぬ剛力、魂の力の如きものがあることを認めざるを得ない。
 
因みに、前掲の高村光太郎は槐多の死から16年後に追悼詩「村山槐多」(1935年)を発表し、ごく身近な存在であった才能に富む若者の死を「強くて悲しい火だるま槐多」「自然と人間の饒多の中で野たれ死にした若者槐多よ」などと書いて悼んだが、一方で、1914年頃より槐多の寄宿先でもあった小杉未醒(放庵)の居宅付近の田端に移り住み、やがていずれもこの地に居を構えた室生犀星や萩原朔太郎を始め、多くの詩人たちと親交を持った芥川龍之介が『槐多の歌へる』の広告文に「斯くの如く奔放でなければ、斯くの如く謙虚であり得ないかも知れない。」「この敬虔な牧羊神の歌に同感せざる得ないものは、あながち我等ばかりではあるまい。」との文章を寄せていることも興味深い。
 

 Ⅲ.美術に軸足を置いており、一方で詩(的)表現も行う者
 
 
次に、作者自身は基本的にいずれか一方の表現手段に軸足を置いて創作活動をしており、もう一方の表現手段は畏敬を持って接している他者が創作・表出したものであって、その軸足を置いた作品の触媒もしくは表現上の契機・起点として位置付けられていたり、あるいは作品のモチーフそのものとして扱われていたり、さらには装丁・挿画・画賛など、その副次的・補完的・付加価値的な表現手段となっていたりするに過ぎないように思われる表現者のうち、まず、専ら軸足を美術の方に置いている者を何人か見ていきたいと思う。
 
この分類の中で、真っ先に思い浮かぶのは1976年6月に日本橋・高島屋にて、全十点からなる『奥の細道句抄絵』(京都国立近代美術館蔵)を発表し、当時86歳という高齢であったにもかかわらず、これを観た者に「この画家は恋をしている」と評されたことで知られる小野竹喬(1889年〜1979年)である。俳人・松尾芭蕉の代表作である俳諧紀行「奥の細道」(1694年)を絵画に取り上げた先例としては、先に挙げた与謝蕪村の「奥の細道図」(江戸時代、京都国立博物館蔵、重要文化財)の他、小杉未醒の『奥の細道画冊』(1932年、木版画43点)、川端龍子の『奥の細道連作』(1953年、京都国立近代美術館他蔵)などがあるが、竹喬はこれらの先例に対して「本格的な絵画様式と異なって、軽く扱われている」との不満を持ち、30年以上の長きにわたりこれをモチーフとして温め続けた上で、芭蕉の句や文から感受した「まっとうな人間性」「自然に対する真剣さ」「自然観の大きさ」(以上、いずれも1976年「手記」より)を洒脱な色面と単純化されたフォルムによって絵画化しようと試みた。
 
竹喬がこの連作で取り上げた句は以下の十句であるが、その全てが芭蕉の旅程通りではないにせよ、高齢の画家が実際に各々の句が詠まれた地やその風景が類似する地域を訪れて、田圃や紅花や最上川の急流や羽黒山などを写生しつつ、色彩とフォルムの双方において、独自の解釈を加えながら、これを極めて質の高い絵画作品として、一点一点丁寧に結実させていったことに対し、頭が下がるような気持ちになる。観る者によって好みはあるだろうが、特に「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」「五月雨をあつめて早し最上川」「象潟(きさかた)や雨に西施(せいし)がねぶの花」「あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風」の四点は詩(俳句)をモチーフとして、これを絵画化した作品の中で、それまでにないような水準の高みにまで登りつめたものであったように思われる。この『奥の細道句抄絵』の連作は、現段階ではそうした指定はなされていないものの、個人的にはいずれ重要文化財の指定を受けてもおかしくない作品であると考えている。
 

田一枚植ゑて立ち去る柳かな
笠島はいづこさつきのぬかり道
まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉の花
五月雨をあつめて早し最上川
涼しさやほのか三か月の羽黒山
暑き日を海にいれたり最上川
象潟(きさかた)や雨に西施(せいし)がねぶの花
荒海や佐渡に横たふ天の河
あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風
浪の間や小貝にまじる萩の塵
 

次に「四百字のデッサン」(1978年、河出書房新社刊、日本エッセイスト・クラブ賞)などにより、散文の名手としても知られ、その存在そのものが反骨精神と詩的なものに満ちているように思える現在98歳の洋画家・野見山曉治(1920年〜)を挙げない訳にはいかないだろう。野見山は若い頃に『荒地』の詩人たちとも交流を持った経緯があり、殊に水彩画を描く三好豊一郎とは近しい関係だったようで、三好に対して「三好氏の数少ない言葉は、みんなに対してある力をもっていて、詩というものの全く解らない私に、彼の顔は小さいブロンズ像のような存在感があった。」(「四百字のデッサン」より)と書き、対する三好は「風景—野見山曉治に」(1979年)という詩作品で、野見山に対して次のように語りかけている。
 

なにごとも根源から感受しようとすれば
内臓的にグロテスクにならざるをえないんでネ
ノミヤマさん
あなたの風景にも それを感ずる
軽妙ないたずら好きのエスプリに
いささか欠けているわたくしですが
無機質的構造の怪物じみた沈黙に対抗するには
樹齢千年どころか百年ともいわぬ
きらきらする葉っぱの
あのきゃしゃなポプラでもいい
ここに どうでも二本はほしいんです
 
(詩集『夏の淵』(1983年、小沢書店刊)所収「風景—野見山暁治に」後半部分)
 

野見山の半具象・半抽象とも言える絵画作品は遊び心が横溢した非常に伸びやかな筆致で描かれたものが多く、それだけでも〈根っからの絵描き〉らしい、群を抜くような素晴らしい表現だとも言えるのだが、自分がそこに「詩的なもの」を感じるのは、その背景にある自由奔放な精神の所在を裏付けるかの如きタイトルの付け方によるところも大きい。1983年に(当時、銀座二丁目にあった)東京セントラル美術館で開催された大規模な個展において、22歳だった自分が、エネルギッシュな作品群の自由奔放さに魅せられると同時に度肝を抜かれたのは「岩上の人」(1958年、第2回安井賞、東京国立近代美術館蔵)とか、「人間」(1961年、福岡市美術館蔵)とか、「虚空」(1962年頃)などといった、まるで不意討ちを食らわされるような詩的・哲学的なそのタイトルであった。
 
その後も「流れにそって」(1992年)、「コーヒーを飲もう」(1998年)、「いつかは会える」(2007年、明治神宮前駅、ステンドグラス原画)、「誰にも負けない」(2008年)、「ずっとここに居る」(2009年)、「別れたきり」(2010年)、「ぼくは信じない」(2011年)、「かけがいのない空」(2011年、石橋財団ブリヂストン美術館蔵)といった、絵画のタイトルにしては、肩の力の抜けたユニークなタイトルを見る度に、(言うまでもなく、その絵画表現自体が凡人には及びもつかない程、高い水準にあることを前提として)この人は遊び心に満ちた〈詩を書かない〉詩人なのだ、との確信を持つようになった。2014年に、その野見山が文化勲章を受章した際、個人的には「野見山さんともあろう人が、何でそんな下らない、政治権力に直結した権威付けの道具など受けるのか?」と感じたが、旧知の日本画家・前本利彦さんが、個展会場でお会いした際の雑談の中で「野見山さんは、とても嫌そうな顔をしていたね」とおっしゃっていたのを聞いて安心した。
 
自分は若い頃に美術雑誌の編集長を務めた関係で、特に美術業界の裏の世界、日本芸術院会員・文化功労者・文化勲章といったヒエラルキーを登り詰めるため、多くの芸術家たちが政治権力や画壇の人的力学と手を結び、一種の贈賄的手段を用いてまで、必死にそうした権威を得ようとしている様子を見聞きしていた(特に、若くしてこれらの栄誉を手にする者にそうした傾向が強く、野見山などの高齢受章者の場合、そうした贈賄などとは無縁であり、授与する側が遅ればせながら、仕方なく選定している場合が多い)ため、心の底に、どうしてもそうした権威を受ける芸術家を蔑みたくなってしまうような気持ちがある。その意味において、芸術家の最高栄誉とされているこの勲章を辞退することにより、敢然とヒエラルキーを無化した陶芸家の河井寛次郎、洋画家の熊谷守一、作家の大江健三郎、女優の杉村春子の四名の気骨のある行動を支持したいという気持ちがある。
 
それからもう一人、「詩的なるもの」を持ち続けた美術家として、陶芸家・鈴木治(1926年〜2001年)を挙げておきたい。1948年に八木一夫、山田光らと結成した走泥社では、1950年の段階で、①日展などの公募展に出品しない、②古陶磁を範とする制作をしないという不文律を定め、陶芸作家の世界における主な活躍の舞台である現代工芸系の日展(同系列の日本現代工芸美術展と日本新工芸展を含む)にも、日本工芸会が主催する日本伝統工芸展のいずれの場に入って行くことをも拒絶し、退路を断って、独自の道を歩むことを決定する。分かりやすく言えば、やがて日本芸術院会員・文化功労者・文化勲章といった栄誉を辿って行くことを目指すことになる現世的な価値観にもとづく階段にも登らず、人間国宝(重要無形文化財保持者)になることを最終目標とする職人的な世界にも従属しないということである。

※(2)に続く
 
 

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