神々の檻                                                 

          
             河津聖恵


白象さんが長崎からやってくるでぇ
高らかな声の主は店先のお父はんだったか
それともだいどこのお母はん
引きも切らず訪れる商人たちを捌く合間合間
影絵の父母は後ろをふりかえり
母屋の奥の奥の縁側に腰かけ
青空の深い井戸を見上げつづける少年に
親鳥のぬくい声を放った
だがこの声も通り庭の天窓あたりで消えてしまう
もう長いこと誰の声も触れない耳朶に
また冷たい雫がしんと落ちる
生まれながらに灰がかった眼はかすかに光る
狭い空を過ぎあぐねるひとひらの雲を見上げれば
小さな雲はみるみる巨大になり
あやかしのように茫洋と拡がり
少年の透明な心を覗き込んだ
すると綿菓子のようなイメージが
ふかぶかと降りて来て
夢の底にうずくまり長い鼻を上げ
人なつこく微笑んだ

けったいな巨きなけものが砂煙をあげ
賑やかな異国をひき連れて来るんやでぇ
近づけば岩山みたいな体に音楽は鳴り雷は轟き
えらいきれいな異国が踊ってるそうやでぇ
木戸銭をにぎり店を出た少年の夢想は
詩のように錯綜する
息を弾ませ小走りすれば
いつしか市中の空気は南国の花々が開いたように甘い
街の辻々には
ふれるなふれるなと風のお触れがめぐっている
やがて見えて来たのは
江戸まで徒歩で引かれる途次
一夜象が寺に留め置かれると聞きつけ
虻のように境内につめかけた人々の
眼も口も鼻も消えぎらぎら光る 顔また顔
象の功徳にふれようとのばされる 手また手
餓鬼の相もあらわな大人たちの肩ごしに少年はついに見た
乾いた泥濘のような皮膚
つまみ取られた瘢痕のような眼
無益な重みをもて余す長い牙
それは夢みていた美しい象ではなかった
惨めで汚れたいきものの実在だった
だが吸われるように目をこらすと
この世ならぬものたちの気が
焦点から次から次へあふれ出て来た
生まれながらに曇り空の瞳にだけ
華麗な極楽が聞こえない音楽となって明かされ始めた
この鮮やかなけものたちはなんものか
どない捕まえたらええんか
世の実相が自分にだけ見え他人に見えない半透明の孤独の中で
神のけものたちの影は促すようにうごめいている
少年の中に絵師がかすかに胎動した
この世ならぬけものたちのかたちと色をもとめ
指はほそく長く触角のように伸び始めた
その尖端からもう一つの色界へ靡く
筆の命毛が生え初める



歳月は流れ、眼前に生きる鳥やけものを見つくし、生命の気を精密に写しとった
「動植綵絵」を寺に寄進したあと、絵師の心に思いがけなく空洞がひらいた。あ
の日のまぼろしがはげしい瘴気となって立ちのぼった。見えない神たちは見てし
まった者から離れることなく、心の暗がりにひそんでいたのだ。夢の青い水を鴛
鴦が泳ぐ。黒い水犀が跳ねる。木の上で猩猩の眼が赤く灯る。密林で麒麟の翼が
燃える。黄色い虎が溶けるように笑う。獏が空に向かって夢を吐く。鳳凰は鳥た
ちを統べようと誇らかに羽を広げる。そして白象は非在のけものたちをあらしめ
る力の源として、再会した絵師の前にしずかに歩めを止めた。

途轍もないまぼろしは細部から手なづけるしかない
絵師は象を描こうとした彩筆を止めた
四万五千あまりの小さな正方形で分割するという
不思議な狂気がふいに訪れ 身を任せた
線描きの筆先を淡墨に染め
絵の隅から1.1センチ四方ずつ
この世の空虚があの世の実在によって満たされるようにと
筆先に祈りを込めて描き出すと
えずくろしい神気に突きあげられ
数、量、構成のエネルギーをもたらされた絵師は
すでに神々の技師と化していた
分割と計算に目と筆をこらし                 
おのれ自身を四万五千のパーツに分割しつつ格子を描きつづけた
檻を描きつづければ神のけものたちはそこにおのずと降臨する
その輝ける矛盾に賭けた絵師は勝っただろうか
あるいは捕らえようとしたのは
神を見てしまった衝撃に壊れた自身の檻から放たれた
心というあてどない無限のけものだったか
描き終わった絵師の全身から
あふれやむことのない怪しい光の眼力――

この絵の筆を執ったのが本当に絵師だったのかは分からないという
だが謎めいた手法そのものにおいて
絵師が見たまぼろしは鮮やかに生きつづけている
格子に森閑とひしめく神々は
濁り世へ踏み出すことを今もためらい
格子の向こうではなく小さな正方形一つ一つの内部に
未知の怒りをたたえ
色濃い極小の心臓を密かな暗号のようにちかちか鼓動させている

   ー伊藤若冲「樹花鳥獣屏風図」

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