霏霏


                             河津聖恵

霏霏といううつくしい無音を
とらえうるガラスの耳が
多くのひとから喪われつつあった時代
ひとひらふたひら
空が溶けるように 今また春の雪は降りだし
この世の底から物憂く絵師は見上げる
見知らぬ鳥の影に襲われたかのように
煙管を落とし 片手をゆっくりかざしながら

雪片ははげしく耳をとおりすぎ
ことばの彼方に無数の廃星が落ちていく
ひとの力ではとどめえない冷たい落下に
絵師は優しく打ちのめされる
愛する者がはかなくなって間もない朝
この世を充たしはじめた冷たい無力に
指先までゆだねてしまうと
庭の芦の葉が心のようにざわめき
この世はふいにかたむいた
雁がひとの大きさで墜落し
風切羽を漆黒に燃やして真白き死をえらんだ

笑うように眠りかけて指先はふるえる
乾いた筆が思わず
共振れする 霏霏
「見る」と「聞く」 「描きたい」と「書きたい」
ひえびえと裂かれていく深淵に雪はふりつむ
眠りに落ちた絵師は
ついに胡粉に触れた
骨白に燦めく微塵の生誕を見すごさなかった筆先   
         
   *伊藤若冲「芦雁図」

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