詩「髑髏」をめぐって

         
           河津聖恵
 
2016年、翌年に伊藤若冲の生誕300年を控えて各地で若冲展がひらかれました。

京都でも秋に京都市美術館で開催され、私も訪れました。

その時はとにかく人が多かったという印象です。しかも皆大変熱心に見つめてなかなか作品の前から動かず、記憶をたどっても人気のある鶏の絵などは、人の頭ばかりで全貌をきちんと見られなかった気がします。

そんな若冲展で全体像をはっきり見たと言える数少ない作品の一つが、「髑髏図」。

たしか京都から大阪までの船旅の風景を描いた長い画巻の「乗興舟」のそばに二幅掛けられていたと思います。

「髑髏図」も「乗興舟」もともに拓版画と呼ばれるものです。拓版画は、後で引用する佐藤康宏さんの文章で説明されていますが、刷るのではなく、「表に墨をつける」ので、墨の漆黒の艶やかさが生かされる技法です。

美術館の片隅で初めて見た私も、その墨の黒色の官能的な美しさに思わず引き込まれ、しばらく佇んでいました。(幸いなことに、そのコーナーの前だけなぜか人だかりがなかったということもあって。まさに贅沢なブラックホールに呼ばれたように?)

ただこの若冲は墨つけまで手がけたわけではなく、下絵を描いただけのようです。実際墨つけを手がけたのは、若冲とゆかりの深い万福寺の渡来僧だったと読んだ覚えもあります。いずれにしても、それは他人任せにしたというのでなく、第一に作品の完成度を求めた若冲の絵師としてのこだわりの強さを表しているでしょう。

「髑髏図」は「乗興舟」の7年前の1760年に制作されました。1758年から始まった「動植綵絵」の制作と重なる時期です。つまり絵師は同時期に「動植綵絵」の色鮮やかさと、その対極にある墨と余白だけの世界に挑んでいたのです。これはとても面白く、興味深いことだと思います。

 「乗興舟」についての、拓版画の説明も含む佐藤康宏さんの文を参考までに引用します。

「若冲は、版画においても瞠目すべき業績を残した画家である。彼は、「乗興舟」、「玄圃瑶華」、「素絢帖」、そして仮に「着色花鳥版画」と呼ばれる揃い、の少なくとも四種類の下絵を描いた。このうち初めの三点は、拓本を取る手法に似ているところから、相見香雨氏が拓版画と名づけた異色の技巧から成る(「若冲の拓版画」、『芸術新潮』六巻九号、一九五五年)。通常の木版画とは逆に、下絵を裏返しにせすそのまま版木に当て、余白ではなく描線の部分を彫ってへこませ、彫り終えた版画に料紙を載せ、表から墨をつけていくのである。その結果、彫った図が紙に白く残り、地は墨を載せて黒く輝く陰画(ネガ)のような画面ができあがる。さらにぼかしの技法を併用した「乗興舟」の絵肌の美しさは、木版画の〈黒の技法(マニエール・ノワール〉とでも呼びたくなるほどだ。」(『名宝日本の美術27 若冲・蕭白』小学館)

「乗興舟」についてはやはり連作「そのうちあらためて取り上げたいと思いますが、こちらは黒白の対比だけでなく、中間色の灰色が友禅染の技法で絶妙にぼかされ、春の川下りの時空の移り変わりを見事に表現した、幻想的な作品です。一方「乗興舟」に比べて「髑髏図」は、黒白の対比のみで、ぼかしの部分は一切ありません。髑髏も平面的に絵に貼りついているようにさえ見えます。まだ拓版画の技法の初期段階だったからでしょうか。しかしそれゆえ髑髏としての不気味さより髑髏のかたちの面白さが際立つ効果がたしかにあると思います。

「髑髏図」の段階では、拓版画でのぼかしの技法を若冲はまだ発見していなかったのかも知れません。しかし髑髏を包み込む闇を果てしなく深める墨の美しさは圧倒的です。闇は髑髏を包み込むというより、髑髏から発散されているように私には思えました。それは何もかもを吸い込む鏡のように輝いているのだとー。

「髑髏は泣いてなどいない
見る者が吸われるほど見事に広がる無の鏡のごとき闇を
その存在からあふれ出させている」(「髑髏図」)

  しかし、なぜ髑髏という普通人が恐れるモノを若冲は題材に選んだのでしょうか。若冲は他にもいくつか「髑髏図」を制作していますが、最晩年に描かれた墨画は、何かとても寂しく、自分の生命力が弱まっているという絵師の自覚が否が応にも伝わってくるものでした。

しかしこちらの「髑髏図」は「動植綵絵」を描いている時期に制作されたもので、年齢もまだ45歳で身辺に色々ありながらも絵師としての仕事は佳境を迎えた頃。そうした背景から考えてみると、若冲は、画のモデルとなった眼前の髑髏というモノの存在感に、むしろ尽きることのない闇の生命力を感じ取ったのではないかという推測も可能なのではないでしょうか。

狩野派のように手本を模写するのではなく、実物を描くことで物の「神気」を捉えようとした若冲。だから髑髏から言わば「ノアールな神気」を感受したのかも知れません。

あるいはひょっとしてですが、「拓版画」という技法を手中にしたことで、若冲は、この技法を生かせる対象を探して、髑髏というぴったりのモノを見つけ出したのかも。。

いずれにしても若冲は髑髏という「オブジェ」をどこから手に入れたのでしょうか。詩「髑髏」の終結部は、もしかしたら刑場の近くの竹やぶ辺りからではないか?!という私の逞しい?妄想にもとづくもので、もちろん真実はそれこそ「藪の中」です。それでも妄想の根拠ならぬ発生源が実はあります。

ある日、若冲の家族の墓のある宝蔵寺界隈を歩いていた時、ふと突き当たりの片隅に古い碑があるのが目にとまりました。「医学発祥之地 山脇東洋顕彰」。「山脇東洋」は杉田玄白よりも前に活躍し、若冲よりもやや年長の医学者です。

どうやら若冲の生きていた時代、碑の辺りはかつての獄舎のゆかりの地で、そこでは囚人の死体解剖もおこわれたそうです。碑は、山脇東洋による日本初の人体解剖もここで行われたとの記念碑だったのです。

若冲の「髑髏図」は、この碑の示す同時代の人体解剖の事実と、関係はないのでしょうか。この碑を発見した時以来、私の妄想は深まっています。

「この世からごろんと捨て置かれたものが恋しくて
絵師はさまよい歩いていた
気づけば刑場近くの竹林で
風が吹き声々がざわめいた
この世からごろんと捨て置かれて
絵師は竹林の闇へ一人分け入っていった」
                                  (「髑髏図」)

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