絵画から詩が生まれるとき  -詩と絵との対話-


                              長田典子
 
 
1.ユダヤ人画家シャルロッテ・サロモンとの出会い
 
シャルロッテ・サロモンという女性画家を知ったのはつい最近のことだ。知り合いが集めている絵葉書を見せてもらっているときに偶然に目にとまった。インターネットで調べてみると(※1)、彼女は1917年生まれのユダヤ人で、1943年にアウシヴィッツ収容所で殺されていた。当時彼女は妊婦だった…。シャルロッテはナチスに囚われる直前まで絵を描き続けていたという。一見、幻想的で美しいそのポストカードの絵は、見る側に豊かなイメージを喚起させてくれ、実に詩的だ。実物を目にしたら、きっと、もっと迫力を感じ、詩のイマジネーションを掻き立てられる予感がした。
 
わたしが手にしたポストカード(※2)は、絵を描く女性の姿がまず目にとまる。時間の経過を辿るように同じ人物だと思われる女性が三人、縦に並んで描かれている。それぞれの女性の視線の先には、椅子や靴、ショール、帽子、花瓶、手押し車のような日用品、画家本人の幼い頃の姿だろうか…1歳ぐらいの女の赤ん坊の姿、下を向いているような向日葵、暗い色調のチューリップのような花などが描かれている。それらは3人のシャルロッテが描くその時々の絵の対象だったと推測できる。美しいブルーの様々な色調は絵の背景や椅子の足などにも使われているが決して明るいとは言えない濁った青。花々の色も陰影が多い。一枚の絵の中に過去から現在までの記憶が同時に描かれているようで、複数の、あるいは継続する時間と空間を感じ、重層的な物語を再現しているかのようだ。その光景は、わたしの身体の奥深い場所に鋭く刺しこんできた。

気になって、1988年に一度だけ、東京、横浜、大阪、京都と巡回展が催されたときの図録『CHARLOTTE 愛の自画像』(ハインク・インターナショナルB.V.1988)、子どもたちのための『シャルロッテの絵手紙 ガス室に消えたユダヤ人画家』(東銀座出版社、2015)の2冊を入手した。図録をめくると「人生、それとも劇場?」と題された一連のシリーズの絵画の多くに、クラッシック、ドイツ民謡、歌謡曲、などから引用されているという多くのフレーズがドイツ語で描かれている。つまり、彼女は、絵画に時間、空間、そして音楽を表現し、一枚の絵画を立体空間として立ち上がらせていた。また、それぞれの絵画の裏には、映画やドラマの粗筋のような会話やストーリーがそれぞれに添えられており、それも、図録ですべて読むことができた。
 
シャルロッテ・サロモンは、ドイツのユダヤ人迫害がいよいよ激しくなり、1938年に勃発した「水晶の夜」をきっかけに、祖父母が亡命している南フランスへ、当時まだパスポートのいらなかった年齢のうちにという両親の計らいにより20歳で単身亡命した。祖父母の死後シャルロッテはその地で知り合ったオーストラリア人と結婚したが、1943年、ナチス・ドイツが南仏沿岸を占領し、シャルロッテと夫はゲシュタボのトラックに連行され殺害された…。連行される直前に、シャルロッテは信頼していた大家のムーア夫人に「人生、あるいは劇場?」のシリーズと自画像をスーツケースに詰めて手渡してあった。現在は、オランダ、アムステルダムのユダヤ歴史博物館に所蔵されているとのこと。
 
シャルロッテの絵画に大きく影響を与えたのは、敬愛する2度目の母(歌手)の知人で音楽家のヴォルフゾーンの思想である。ヴォルフゾーンの思想は、芸術全般においてどの分野の表現者にも胸に響く言葉ではないかと思った。図録の解説に書かれてあるヴォルフゾーンの理論を引用して紹介したい。
 
「わたしにとって歌を歌うということが、芸術的満足を与えてくれるというもっとも本源的な行為だ。赤ん坊はお腹がすくと泣く。本当の歌い手というのはそういうふうに歌うべきだ。『彼』が歌うのではなく、『何か』が彼の内面から歌となって湧き出るのだ。声調は心のいちばん奥から出てくるものでなければならない……」(※3)
 
この「歌を歌う」という言葉を「詩を書く」と置き換えてみても、なんの違和感もない。シャルロッテ・サロモンの絵のポストカードを見たときに、わたしの魂の奥深い場所に刺しこみ刺激したのは、シャルロッテの、まさに内面から湧き上がる「何か」だったのだ。ヴォルフゾーンの理論を見事に絵画で開花させたのが、シャルロッテであったと言える。
  ユダヤ人画家シャルロッテ・サロモンについての説明が些か長くなってしまったが、少しでも多くの人にこの画家のことを知ってもらえたらと願っている。
 
絵画に潜んだ物語や背景を感じ、自分の深部とどうしようもなく共鳴し、刺激されたときに、わたしは詩を書きたいと思うことがある。その瞬間に、わたしは自分自身とも向き合わずにはいられない。わたしにとって、絵画と詩との会話が成立したと感じるのはそういうときだ。
 
シャルロッテ・サロモンの遺した大量のグワッシュ絵具で描かれた絵画を見る機会があったらぜひとも駆けつけたい。実物を見たら、わたしは必ず詩を書かずにはいられなくなるだろう…シャルロッテ・サロモンのポストカードは、わたしにそんな気持ちを抱かせた。詩として言葉にするには体内で熟成し発酵させる時間が必要だ。今、わたしはその時を静かに待っている。常に心の中で彼女の絵を強く意識してしまう……。
 
 2.わたしにとっての「詩と絵画そして音楽」
 
実は、美術館に行き、気に入った絵画に出会うと、その前で、自然にひとさし指が小さく動いてしまう。不遜にも、どうしてもその絵をスケッチしたくなるのである。海外の美術館では、画学生がスケッチブックと鉛筆を持ち込み、各々、絵の前でデッサンしている姿を見かけるが、その光景がうらやましくて仕方ない。もう何十年も絵筆は握っていないので、実際に紙の上に描いたら、酷いことになるのはわかっているが、わたしの指はどうしても反応してしまうのだ。この行為は詩を書くことに繋がっている。
 
以前、朗読を聞きに来てくださった詩人の伊藤悠子さんから「聞いていても光景がくっきりと浮かんで後になっても印象が残りますね」と身に余るお褒めの言葉をいただいたことがある。たしかに、わたしは見えた光景をスケッチするように詩のなかで言葉にすることが多い。
 
わたしが詩を書くとき、まず頭に意識するのは、見えた景色であり、言葉の音程である。それらを、スケッチする、あるいは記譜するように詩を書くことがある。近頃はあまりないが、ファンタジーのような空想の場面を詩にしていたときは、まず、頭に浮かんだ光景を鉛筆で具体的に絵にしてみると、思考が整理され言葉の表出に繋がることが多々あった。さらに、頭に浮かんだ言葉そのものにも、リズムや音程を感じてしまう体質なので、あたかも記譜をするように、言葉を配置した。その感覚は現在もあまり変わっていない。自分の体内の音の高低やリズムを、詩の言葉を配置する上でなるべく生かしたいと考えている。特に楽器に触れる機会のなくなった今となってはかなり怪しいが、ちょっとだけ、絶対音感のようなものがある。1998年に新潮社から出版された最相葉月著『絶対音感』を当時読んで驚愕した。それまで、世の中の人はみんな同じ感覚を持っているのかと思っていたからだ。そして、自分はどうやら、絶対音感なるものを多少なりとも身に着けている人間だと初めて気が付いた。第1詩集『夜に白鳥が剝がれる』(1992年、書肆山田刊)は、言葉の高低や強弱を強く意識し、文字の視覚的な美しさも加えて言葉を配置した詩を纏めている。コンクリート・ポエトリーという手法があるが、当時のわたしは、白い紙を画用紙でありながら、同時に五線譜のように捉えていた。
以下に引用する詩は、エッシャーの絵に刺激を受けて書いた詩の始めの連である。
 
黄金の(ユリの)玉座   
 
(あなたの)
眼球に咲く
アタタカイ
かぐわしい
黄金の(ユリの)
玉座の(花弁の)
ゆるやかに
下降するカーヴで
あああああああああ足を滑らせる
猛スピードでスリップする
いやあああああああっ(あ、なたを)
見、う
    し
     な
        う
          (ここ・いちばんのときにかぎって
           はじめの音でつまずく(クセ)は
           いつまで(わたしを)苦しめるのだろう)
(円筒形の)
闇を抜けるころには
         (あなたはもう)
                (どこにも)
             いない
(ホリゾントみたい)
霧が
極地的にたちこめる(つめたい)平野で
                  靴音がする(あの音)
              右の踵をひきずる(あなたの)
銀色にひかる(ほそい)三日月 
              (その輪郭)
むきあって
ふたつ
浮かんでいるのは(あれは、
あなたの)うすくひろがった耳だわ
 
  (以下省略)
 
(第1詩集『夜に白鳥が剝がれる』(1992年、書肆山田刊)所収)
 
なぜこの書法にしたのかは本書のあとがきにかわる詩論「夜に白鳥が剝がれるー言葉の光(ひかり)空間論」に詳細に記してある。このやり方は、自分のリズムを読者に押し付けてしまうようで、むしろ読者を窮屈にしてしまうのではないか、また、自分の体内の絶対音感なるものがかなり影響しており、読者にはなかなか理解されていないと感じて、その後は封印している。しかし、久しぶりにこうして当時の詩を書きおこしてみると、やはり、自分自身はかなり気持ちがいいのである。シャルロッテ・サロモンが絵画に表現しようと試みたことを、自分も詩を書くうえでしていたのだと知り、とても嬉しく共感した。
 
他にも絵画からインスピレーションを得て詩にした作品に、「おりこうさんのキャシィ」という同題名の第2詩集『おりこうさんのキャシィ』(2001年、書肆山田刊)に収めた詩がある。
80年代後半、初めてNYのメトロポリタン美術館を訪れたときのことだ。ヨーロッパ中世の宗教画の区画に導かれるように入った。展示されている多くの絵画の前に立ち胸で十字を切り祈りを捧げる人もいた。その部屋で、13世紀初期、トスカーナ地方の画家ベルリンギエーロのテンペラ画『聖母子』に出会った。宗教画の区画に入ったとたん独特の雰囲気が漂っていた。ベルリンギエーロの『聖母子』のマリアは眉間に皺を寄せていた。その表情は実際の母が怒ったときの表情に繋がり、わたしの気持ちは一気に幼児期に遡った。そしてカトリック系の幼稚園に通っていた記憶が蘇った。旅行から帰ると、記憶の新しいうちにと、すぐに書いた詩である。こちらも、やはり始めの連を引用したい。
 
おりこうさんのキャシィ   
 

メトロポリタン美術館
なんてうつくしい
ベルリンギエーロの『聖母子』の絵の前で
動けなくなる
呪縛される
じわり、じわり、と
からだの芯に白い水盤が広がり 百合が開く
水が静止する
水の上に そっと 横たわる
水に 抱かれる 百合の花びらに冷やされる
なんて すてきな冷たさかしら
洗われていく
体温が冷めていく
すてき
このまま このまま このままでいたい
このままでいたいベルリンギエーロ
うつくしい『聖母子』眉をしかめた聖母マリア
 
     (以下省略)
 
(第2詩集『おりこうさんのキャシィ』(2001年、書肆山田刊)所収)
 
絵画から新たなイメージを喚起し、さらに詩へと移行する過程を、随分と素直に書いていると今さらながら思う詩だ。
 
 3.シャルロッテ・サロモンの絵画から詩の旅へ
 
シャルロッテ・サロモンの一枚のポストカードに出会えたことで、わたしは自分の詩への啓示や新たなテーマを与えられたように感じた。

ナチス・ドイツの台頭とともに、ユダヤ人迫害が増大し、シャルロッテは学校でユダヤ人であることを隠さなければならなかった。にもかかわらず友人たちの知られるところとなり通っていた純粋応用芸術統合公立学校を退学しなければならなかったのである。友人だけでなく社会全体が「出て行け!」「殺せ!」と自分に向かって叫び、果てには「水晶の夜」と呼ばれる暴動が起こるなかで、多感でまだ未熟な十代のシャルロッテの恐怖や不安、失望は計り知れない。
図録『CHARLOTTE 愛の自画像』の解説には、当時のシャルロッテの印象について友人が「小柄で内気な、地味な人だった……歩くようすは、11月の陰鬱なお天気の日のよう……」と語っていたという。そうか、ドイツの11月は陰鬱なのか、と思った。緯度が日本よりは高いので、冬に向かって日の当たる時間も日本に比べたらずっと短いのだろう。日本の11月の空は高くて晴天が多く、湿気の多い夏から晩秋にかけて空気が乾燥していき、とても爽やかな天候が続く。

わたしは、若くしてアウシュヴィッツの強制収容所で殺害されたこの画家について、さらに知りたいと感じている。彼女の絵がまた日本で巡回されるときを切望する。あればいいのだが……。いつかできたらオランダのユダヤ博物館に出向き、実際にその土地のもつ空気や光に触れながらシャルロッテ・サロモンの絵画を訪ねてみたいというかすかな願いも抱いている。地域によって光の加減が随分と異なり同じ色でも発色が全く違うからだ。できることなら、生誕し成長したドイツ・ベルリン、20歳で亡命した南フランスへと、彼女の足跡を追えたら……、とも夢のように思っている。
 
 
※1.ウエブサイト・公共空間X「アウシュヴィッツに消えた女性画家シャルロッテ・サロモン」http://pubspace-x.net/pubspace/archives/1248 
 
※2.ポストカードの絵
ウェブサイト「シャルロッテ・サロモン…アウシュヴィッツに散った悲劇のユダヤ人画家」https://ameblo.jp/bandazakura/entry-12324202241.htmlより転載させていただいた。
 
※3.シャルロッテ・サロモンに関する情報のほとんどを、図録『CHARLOTTE 愛の自画像』(ハインク・インターナショナルB.V.1988)から得た。そしてこの図録から大きなインスピレーションを受け本文を書いた。

なお、本文は、図録『CHARLOTTE 愛の自画像』の資料を基に書いているため、シャルロッテ・サロモンの年齢はじめ人名の表記など、※1、※2のオンライン記事とは齟齬が生じている旨ご了承ください。(シャルロッテ・サロモンについては、研究途上であり未知の部分が多いと思われる。)

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