プレヴェールのコラージュ

            河津聖恵

ジャック・プレヴェール(1900-1977)の詩に初めて出会ったのは、記憶によればかなり昔、大学生の頃だったでしょうか。それは詩の雑誌で紹介されていた「鳥の肖像を描くには」(1943)という詩です。一般にプレヴェールと言えばこの詩か、シャンソンの「枯葉」の詩を挙げる人が多いのではないでしょうか。

フランスでは「国民的詩人」(私は余り好きな「称号」ではありませんが…)とも言われるプレヴェールですが、日本ではその全貌を紹介した書物は殆どない気がします。ただ一冊だけ『思い出しておくれ、幸せだった日々をー評伝ジャック・プレヴェール  』(柏倉康夫、左右社)があり、これは20世紀のフランスの政治と文化の状況とプレヴェールの人生を陰影深く、精緻に絡ませた名作だと思います。

次に長くなりますが、「鳥の肖像を描くには」全文を引用します。

「鳥の肖像を描くにはーエリサ・エンリケスに」  

                  ジャック・プレヴェール 


まず鳥籠を描く
扉は開けたままで
次に描くのは
なにか可愛いもの
なにか単純なもの
なにか美しいもの
鳥のために
なにか役立つもの……
その次はキャンヴァスを
庭の
林の
あるいは森の木に立てかけて
木の陰に隠れる
なにも言わず
身動きせずに……
ときには鳥はすぐにやって来る
でも鳥がその気になるまで
何年もかかることだってある
がっかりしないで
待つこと
必要なら何年も待つこと
鳥が来るのが早いか遅いかは
絵の出来栄えには
関係ないのだから
そして鳥が来たら
もし来たらの話だが
完全に沈黙を守り
鳥が鳥籠に入るのを待つ
鳥が入ってくれたら
筆でそっと閉めて
次に
鳥籠の栈を一本一本消す
鳥の羽根に触れないように気をつけて
次に木の姿を描く
鳥のために
いちばん美しい枝をえらんで
そして青葉と風のすずしさと日射しの中のほこりも
夏の暑い草むらの虫たちのざわめきも
それから鳥が歌う気になるのを待つ
もし鳥が歌わないなら
それは良くないサイン
絵がまずかったというサイン
もし鳥が歌ったらそれは良いサイン
きみがサインをしても良いというサイン
そこできみは鳥の羽根を一本
そっと抜きとって
それで絵の隅にきみの名前を書く
                               (小笠原豊樹訳)

この詩で「きみ」と呼びかけられているのは、エリサ・エンリケスという女性の画家。エリサはプレヴェールの旧友の画家の妻で、当時まだ21歳でした。プレヴェールは彼女に肖像画を描いて貰ったお礼に、彼女の展覧会のカタログにこの詩を寄せたそうです。エリサの絵に鳥をモチーフにしたものがあったのでしょうか。いずれにしてもこの詩でプレヴェール は、完成された絵を元にあれこれ空想を働かしているのではありません。どのようにすれば対象の生命をそこなわず、その豊かさをそのまま捉えていけるのかを、短い映像詩を作る中で模索しているのだと思います。

『評伝ジャック・プレヴェール  』で柏倉康夫さんはこう書いています。

「詩は単にエリサへのオマージュに留まらず、彼の詩法の要諦、詩を書くときの信念を表現したものである。棧を消し去った鳥籠は愛と自由の象徴であり、「扉は開けたまま」なのは自由な解釈を可能にするためでもあった」(364頁)

確かにプレヴェールの生涯にわたる詩のテーマは、「愛と自由」であったと言っても過言ではありません。しかもそれらは、頭の中の観念ではなくて、パリのどんよりした空やセーヌの流れや、絶望的な夜の闇といったリアルな現実に身を置く生きた人間の動きと共に現れて来て、こちらへ生々しく迫ってくるものなのです。それはプレヴェールが『天井桟敷の人々』を始め、多くの映画の脚本を書いていたことと、関係があるのではないでしょうか。素晴らしい台詞を生み出す脚本家として、たくさんの映画に関わったことが、詩の技法にも生かされたのだと想像出来ます。

幼い頃のプレヴェールは、パリの貧民局の調査員だった父親に連れられて貧しい人々の暮らす地区をしばしば訪れます。またプレヴェールの家庭も貧しく、また学校嫌いも手伝って、第一次大戦が始まると同時に学校をやめ、働きに出ます。マーケットやデパートの店員など様々な職業を転々としたそうです。そうした経験が、徹底的な反権力・反権威主義の姿勢を形づくり、後年作品に自ずと反映して行きます。

反権力・反権威主義的な資質から、プレヴェールは1920年代、必然的に当時のシュルレアリスム運動に加わることになりますが、やがて運動の内部の権威主義が露わになるにつれて、そこから遠ざかって行きます。しかし、シュールレアスムが持つ魅力、あるいはイマージュの生命力、跳躍力とでも言うものは、生涯プレヴェールの言葉から失われることはなかったと言えるでしょう。

またもう一方でプレヴェールの言葉を魅力的にしているのは「恋愛」のモチーフです。プレヴェール自身感受性がつよく恋多き男性でしたが、意外なことに十全に恋が実ることは少なかったようです。しかしその恋に「切ない喪失感」があるからこそ、詩には艶やかなエロスが纏わり、そこから愛することと生きることのかけがえのなさが、読む者に直接的に伝わってくるのだと思います。 

ちなみに、私の好きなプレヴェールの恋愛詩です。

「夜のパリ」     
 
                     ジャック・プレヴェール

三本のマッチ 一本ずつ擦(す)る   夜のなかで
はじめのはきみの顔を隈(くま)なく見るため
つぎのはきみの目をみるため
最後のはきみのくちびるを見るため
残りのくらやみは今のすべてを想い出すため
きみを抱きしめながら。 
           (小笠原豊樹訳)
                 

(じつはこの素敵な恋愛詩から触発を受けて、私も、夜のパリでの恋人たちの抱擁を描いた詩を書いています。女は伊藤若冲描くところの真っ白な鸚鵡の化身なのですがー。)

前置きが長くなりましたが、さて、プレヴェールの「詩と絵の対話」はどうだったでしょう。

写真集や画集に寄せた詩はたくさんあります。しかしプレヴェール独自の絵との関係という点で、最も注目すべきは、晩年のコラージュ製作でしょう。

なぜコラージュを作り始めたか。そこにはある不幸な事件が関わっています。

1948年10月12日、シャンゼリゼに面していたある建物の二階でインタビューを受けていた時のこと。

プレヴェールは何気なく窓に寄りかかりました。するとなんと大きなガラス窓には閂がかかっておらず、窓は突然外側に開いて、プレヴェールは外に転落してしまいました。窓の外には手すりもバルコニーもなく、看板を一瞬掴んだものの、彼は歩道に落下し、頭を石の歩道に打ちつけたのです。

(なぜ窓に手すりもバルコニーにもなかったかと言えば、ドイツ軍が占領中にこの部屋に機関銃を設置し、下を射撃しやすいように作り変えていたからだそうです。)

プレヴェールは生死を彷徨いますが、一命を取り留めます。しかし傷の後遺症は残り、医師に仕事量をかなり減らすよう命じられます。その後、パリから離れたフランス南部の、小村サン=ポールでリハビリ生活を送ることになります。コラージュ制作はその時に始まりました。

『評伝ジャック・プレヴェール  』で柏倉氏は、このコラージュ制作に関し次のように述べています。

「転落事故のリハビリに来たサン=ポールで、仕事以外に何か手作業をするように医者に言われたプレヴェールにとって、コラージュは格好の作業となった。一九六一年にベルギーのテレビ局のために弟ピエールが製作した、プレヴェールの自伝的フィルム『わが兄ジャック』で、プレヴェールはこう語っている。「私はデッサンを描いたが、それは望み薄だった。私は花や小さな人間や鳥を描くことは出来ても、遠近法を知らなかった。……」遠近法を知らなくても、彼の詩そのものがコラージュだった。(略)彼の詩は言葉のコラージュだった。」

「ルネ・ベルトは同じ『わが兄ジャック』のなかで、「ジャックは次第にコラージュで自分を表現するようになりました。彼はまず詩でそれを試みました。人びとは彼の詩の幾つかはすでに言葉のコラージュだと認めました。精神のあり様は同じです。それぞれ異なる、予想もしない要素を関係づけ、活性化する能力を、ジャック・プレヴェールは最初に言葉で示したのです。他の人たち、シュルレアリストたちのなかにも、コラージュを用いた人はいます。マックス・エルンストはとても美しいコラージュをつくりました。でもプレヴェール のものは、それと同じではありません。彼は彼にしか属していない現実の要素に生気を吹き込むのです。彼のコラージュは、知的形而上学のそれではありません。そこにはマックス・エルンストのコラージュのあるものが持っている、オブセッションや幻覚といった性格はありません。ジャックのコラージュは完全に彼の詩情に属するものなのです。」と述べています。」

プレヴェールのコラージュは、『想像力の散歩』(粟津則雄訳、新潮社)という詩文集で見ることが出来ます。それを見ると、素人ととは思えない出来栄えです。何よりも確かにここにはプレヴェールの反権力、反権威主義、諧謔としてのシュルレアリスムが、大胆なモンタージュからみちあふれ、色彩の鮮やかさによってこちらに奇妙でつよい印象をもたらします。

戦争への憎しみからか、口や耳や目に、奇妙な物体を貼り付けられた兵士たち、頭が聖書と巻物になった神父が大蜥蜴に説教し、その頭から現れた奇妙なクラゲと語り合っているような子供、目の中に小さな女性たちの住む空中の頭部、毛虫に齧られた果物になっている法王、雄山羊の頭をした天使たち、猿の頭をした神父ー。
 

材料は古本屋や蚤の市で見つけた雑誌の切り抜きで、「まず『語りかけてくる』イマージュを見つける」ことが重要だったと言います。何百という絵や写真からナンセンスな笑いを誘う組み合わせを発見する。それはプレヴェール自身の詩の方法とも通底する方法ですが、絵や写真の切り抜きという複製物は、言葉という抽象的な記号よりも、諧謔を生み出す力を潜在させているでしょう。全体から切り離された断片たちの呪力というか。プレヴェールはそうした断片たちの呪力をあつめて、権威主義という全体性を撃とうとしたとも言えるのではないでしょうか。

ちなみにコラージュを作り始めてから、その素材を探すために古本屋や蚤の市をぶらつくことは、リハビリ中のプレヴェール にとって密かな楽しみになったようです。それは詩を発見するための小さな旅だったのかも知れません。

その後フランスは政治の季節を迎えると、プレヴェールもプロテスト詩を書きました。そして1977年、ノルマンディー地方の海辺の町、オモンヴィル=ラ=プティットで77年の生涯を閉じます。長年の喫煙が原因の肺癌でした。今その終の住処は、プレヴェール記念館になっているそうです。

最晩年の印象深いエピソードがあります。友人が自分たちもプレヴェールの住む村に越して来たいと言って来た時、病のためかこう拒絶します。ここにはビストロもない、そして「これがわれらが村の教会だ!」と、村の教会を写した絵葉書に、近くにある原子力発電所を描き込んで送ったそうです。結局友人は越して来るのですが、原発への憂鬱な思いが込められたその絵葉書は、プレヴェールらしい辛辣な最後のコラージュだったのではないでしょうか。一度見てみたいです。

私も昨年秋にパリに行き、プレヴェールが幼年時代に住んだサン=シュルピュス広場辺りや通学路でもあったチュイルリー公園を訪れました。ちょうど枯葉が舞う頃で、雨に濡れた路面に落ちた大きな葉々の存在感に、これは日本語でいう枯れ葉なとではなく、「死んだ葉」(プレヴェールの歌の原題)なのだと実感しました。

プレヴェールの残した言葉は、なお生きている葉です。私の掌の中にあるその不思議なコラージュたちからは、玉手箱のようにいつでも未知の詩の空間が立ち現れて来るのです。

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