魂の変容

ー難波田史男をめぐる断章     
           
          君野 隆久
 

 それはおそらく1983年のことだった。通っていた大学のフランス語の教室で、K先生が何かのきっかけでなつかしそうに「ナンバタくん」の思い出を語りはじめたことがあった。ナンバタくんはかつてK先生の教え子で、型破りな学生であったらしい。フランス語の試験に日本語で詩を書いてきて、これで通して欲しいと言ったとか。ナンバタくんのエピソードを語る先生の遠くやわらかいまなざしは今でも記憶に残っている。しかし無知なわたしたちは、先生の話をただぽかんとして聞いているだけだった。それだけならともかく、あとで悪友と、「さっきの話、なんかアブナイんじゃないの?」などと言ってくすくす笑いあっていたのだから始末に負えない。K先生は『カザノヴァ回想録』の邦訳者でもあった。
 それから十五年以上もたって、わたしはふたたび思いがけず、「ナンバタくん」について語るK先生――詩人で仏文学者であった窪田般彌先生――に出会うことになった。1999年、テレビのチャンネルを回していたら、たまたまNHK教育の「(新)日曜美術館」に窪田先生が出ていらっしゃったのだ。難波田史男の特集だった(「ゆらめく青春の詩(うた)~画家・難波田史男~」1999年2月7日放送)。窪田先生の温顔はかつてと変わらなかったが、はじめて(ブラウン管越しに)見た難波田史男の作品は、わたしの中に言うに言われない感動を残した。そうか、これがナンバタくんだったのか……わたしはかつての不明を深く恥じ、実際の難波田史男の作品を見たい、と願ったのだった。
 
 

 難波田史男(1941‐1974)は高校と大学との二回にわたって窪田般彌の教えを受けている。一度めは一九五七年に入学した早稲田大学高等学院で。難波田史男は高等学院を卒業後、早大に進学せず、神田駿河台の文化学院美術科に通っている。文化学院を中退ののち、一九六五年、二十四歳で早稲田大学第一文学部美術専修に再入学した史男は大学で窪田般彌に再会している。
 
 大学時代に私の語学を受講していた彼は、試験を受けずにレポートを提出したことがあった。語学の試験の代用に一篇の作文をもって評価してほしいという申し出は、いかにも難波田史男らしい突飛な発想だったが、私は了承した。私の三十年近い教師生活において、日本語作文をもって仏語を採点したのは、後にも先にも難波田史男一人である。
 それは「青春の思索」と題するレポートだった。冒頭のところに三富朽葉の、「水のほとりに生もなく、/死もなく、/声ない歌……」といった詩が引用されている、散文詩のように美しい文章だった(窪田般彌『夜の牡蠣』より)。
 
 フランス語の答案として詩を書いた、というのはわたしの記憶ちがいで、この文章によれば実際はレポートを提出したのだった。窪田先生は上記に続けて、レポート「青春の思索」を引用しているから、そのレポートを窪田先生はずっと手許に残しておられたのだろう(今では世田谷美術館のカタログ『難波田史男の世界――イメージの冒険』に再録されていて全文を読むことができる)。
 わたしがそれなりの質量の難波田史男の作品を見た、と言えるのは、窪田先生にテレビの中で再会してからさらに十年以上も経った2012年のことだった。この年の一月から三月にかけて、東京オペラシティ・アートギャラリーで「難波田史男の15年」という展覧会が開催され、245点の作品が公開されたのである。わたしは一月半ばを過ぎた平日の夕方に観に行ったのだが、そのとき入場客はほとんどおらず、監視員の数のほうが多いくらいだった。わたしは難波田史男の作品に囲まれながら、ふと「ここにこんなに美しいものがあるのに、なぜ人々は観に来ないのだろう 」という不審の念に駆られた。これよりも観るに値するものが、世のなかにはそんなにたくさんあるというのだろうか、と。
 それと同時に、ひと気のないホワイトキューブのなかで無限に転変してゆく線の形態と色彩に囲まれていると、水のような冷たい感覚が身体を圧迫するように感じ、やや胸苦しくなったことを覚えている。その感覚はしばらく持続し、帰途の新宿駅の雑踏の光景に非常な違和感――まったくちがう世界をガラスを通して見るような――を覚えさせた。
 
 

 ではわたしが難波田史男の作品をこれまで十分に眺めて、何か手ごたえのある理解を得ることができたかというと、それにはとても自信がない。その理由は、そもそも難波田史男の作品をどう見てよいかわからないところがあるからだ。史男には、おそらく「代表作」と言われるようなものはない。点数の多い展覧会であると次から次へと作品の上を眼が滑って行ってしまい、一点のタブローをじっと眺めるという見方を許してくれない。見るというより、「流れに浸る」という態勢になってしまうのだ。それはある程度までこちらの不用意と絵画的なリテラシーの足りなさのせいであるのだが、そうとのみ言いきれない部分もある。「難波田史男の15年」のカタログの解説で、福士理は次のように書いている。
 
 史男の作品は、一点一点を孤立させて見るのではなく、極端にいえばひとつの大きな連作として、ひとつの連なりとして見たときに、いっそうの輝きを増すように思われる。そこに認められるイメージの豊かなレパートリーは、あたかも円環のような連なりをなして、生の総体を祝福してくれるだろう(「イメージの円環運動:難波田史男のための走り書き」)。
 
 難波田史男は一点一点の作品にじっくり精魂をこめて完成度を高めていくというより、日々音楽を聴きながら(ベートーベンやベルリオーズやチャイコフスキー等のクラシック音楽をステレオで聴きながら描いていたという母親の証言がある)、受け取ったインスピレーションを即興的に演奏するような姿勢で描いていったにちがいない。組画の大作や油画もあるものの、もっとも数多いと思われる、紙にペンと水彩で描かれたタブローは、日々、かなりの速度をもって描かれたもののようである。
 史男の水彩画の制作方法について、実作者の意見を聞きながら推測してみると、まずペンで紙に自由に線をひき、そこに見えてきた形やイメージを彩色し、時にさらにその上からペンによる線を足すという重層的な描き方をしたものらしい。また彩色の具合から見て、一点を書き終えてまた次の一点という場合だけでなく、同時並行的に複数のタブローを制作した場合も多かったようだ。
 手の動くままに線を走らせ、そこに見えてきたイメージに彩色するというのは、芸術療法においてナウムブルク(Naumburg,M.)が1966年に開拓した「なぐり描き法」scribble techniqueに非常に近い(そこには同時代性という共通点もある)。芸術療法において「なぐり描き法」の過程は、ロールシャッハ・テストと同様に「投影的」な性格をもつものである。中井久夫の論によって述べるならば、投影的空間はすぐれて内的空間の性質を帯びているものであり、「奥行や地平もしくは眺望vistaを欠き、この空間内の距離は浮動的であって明確に定義することができない。そしてこの空間は素白の空間ではなく、「前ゲシュタルトVorgestalten」の充満した空間である」(中井久夫「精神分裂病状態からの寛解過程」1974年。引用に際して傍点は省略した)。この記述はそのまま難波田史男の絵画の特質と言ってもさしつかえない。難波田史男の手法は端的にみずからの内的空間の状態を可視化するものであり、その可視化をとおして自己を把握し、またその作業によって治療的な効果をもたらすものであった。難波田史男の多くの作品は、日々における自己治療行為の産物だったという見方もできるだろう。
 史男にとって、作品とは日々流動し変化してゆくプロセスそのものであり、自己の人格や伝統的主題を外化した完結的かつ古典的な「作品」ではなかったのである。その意味では、残された作品の「流れ」に浸る、という鑑賞のしかたは史男の作品に対する態度としてあながち間違いではないのかもしれない。
 
 

 難波田史男の作品を初期から見ていくと、ひとつの形態的オブセッションがあることがわかる。それは「円」である。丸の形、円形である。「なぐり描き法」に近い手法であるから円形が多いのだ、とはかならずしも言えない。史男の作品系列における円という形態の頻出は偶然として片づけることのできないものだ。円とは完結した完全な形であり、世界と宇宙の似姿でもあるだろう。そして史男の絵画がすべて彼の内的空間の投影であるならば、とりもなおさず、その形は彼の「魂」psycheの表象であるだろう。
 はじめ「円」は単純な顔面の形をとってあらわれる。60年から62年にかけての画面には、円形にうつろな目をふたつ穿った薄気味の悪い化け物のような顔がしばしば描かれている。そして画面には血しぶきのような絵の具の激しい飛び散りが残されているものが見受けられる。丸く膨れたバケモノの顔は、自己像のカリカチュアかもしれないし、そのどこか幼児的な表情からみれば自分の中に残っている「こども」性なのかもしれないし、心の中に渦巻いている邪悪なもの、もしくはストレンジなものなのかもしれない。
 しかし描き続けるにしたがって円はその表象を変えてゆく。蛮族の仮面のようなバケモノの大きな顔が破裂し分散して小胞のようなもの、あるいはぼこぼこと湧きだしてくるキノコ型の円へと移ってゆく。それはまるで細胞分裂、あるいは粘菌の成長と増殖の過程のようだ。
 初期のデモーニッシュな表象――たしかに史男の作品には「百鬼夜行」的な側面がある――から抜け出して、明晰な線と色彩をもつ様式に変化すると今度は円は未来都市の構成要素となり、混沌としながらも充実したオブジェや家庭的な暖かさのつまった部屋となり、宇宙ステーションになる。
 いったんはそのように分化した円が、1967年ごろからは、太陽の形象を取るようになる。それは明晰なあかるい形態をとる場合もあるが、薄雲をすかして見通した濁った太陽のような、うつろなぼんやりした空洞の形をとる場合も多い。巨人のひとつ目のような70~73年の「白い太陽」は初期の円形オバケの魔的な性格が回帰してきたかのような不気味さを感じさせる。
 その不気味な白い円がふと変身して可憐な姿をみせたのが、1968年の作品「太陽を紡ぐ少女」であろう。まんまるい顔をして赤い鼻をした邪気のない少女が、椰子の葉のように広がった大きな手のひらを広げて、空や大気と交信しあっている。少女の身体は異形だが、同じ丸顔であるのに、初期のバケモノの顔面のような邪悪さはここに見られない。次に述べるように史男のタブローにはどこかに少女の姿が隠れている場合が多いが、その中ではここに描かれた少女イメージは陽性で無邪気で力強いものである。そしてこのイメージは史男にとっても魅力的だったのだろう、73年には「太陽を紡ぐ少女」のモチーフをもう一度油彩で書き直している。
 ほかにも桃や葡萄のような、あるいはクラゲを思わせる円形のモチーフは後期の水彩画にもしばしばあらわれる。その意味はにわかには理解できないにせよ、史男の画業は円という形をとった魂の変容の記録ということができるだろう。
 
 

 史男のペインティングにはどこかに少女が隠れている。初期のうちは激しい線の運動にまぎれ、デフォルメされた異形のものとして描かれているので見分けにくい。ただ点として穿たれたふたつの眼と、わずかに少女らしい髪型だけが示唆される。女性的な身体のふくらみはほとんど描かれず、非性的な存在である。それは史男の愛好したパウル・クレーの天使にも少し似ているし、同時代の漫画家であった岡田史子の少女像にも少し似ている。
 伝記的な事項から史男と女性との関わりを探すならば、高校三年生の夏休み(1959年)に九十九里浜に行き、宿の娘である中学一年の「K子さん」にあわい恋心を抱いていることが挙げられる。日記を読む限り、数日間の淡泊な交流にすぎないように思われるが、その後の日記には、やや執拗なまでに「K子さん」が反芻される。立原道造の物語「あひみてののちの」を思わせもするこの13歳の少女との出会いは、18歳の史男にとって、おそらく非性的であるがゆえに、その後も危機のときにまっさきに思い出すようなできごとになったにちがいない。70年以降の作品にも、「海(水辺)と少女」のモチーフは繰り返されている。
 もちろんタブローにあらわれる女性像をすべて画家の現実の経験に還元できるわけではない。福士理も、「他者の投影像はたいていが女性、つまり史男にとっての内なる異性=アニマ的なイメージである」(「イメージの円環運動」)と述べている。
 異形の姿をしていた少女がしだいに人間の形をとりはじめるのは「アニマ」の成熟を示しているのであろう。1974年の「夢」という作品には、横たわって目を閉じる女性の枕もとに立つ女性(そのふたりはワンピースを着たふっくらした体つきがわかる姿で、幽体離脱とも、ドッペルゲンゲルとも見える)が中央に描かれており、その向こうにはおさげの髪型をした少女が、驚いたような表情で二人の女性をみつめている構図が描かれている。ここにはあきらかに何かの劇が描かれている。少女と「母」を行き来するアニマ像が統合される直前のイニシエーションだったのだろうか。
 
 

 早稲田大学第一文学部で史男と同級で、のちに美術評論家となった千葉成夫は、史男の風貌に見られる「悲劇性や滑稽さ」を回想し、笑顔というものをほとんど見せなかったと書いている。
 
 わたしは彼が笑った顔といふのを知らない。どんなに暗く険しい、思ひつめた顔つきをしてゐた人も、笑ひはした。じつに人なつこい笑顔をしてみせたり、人間くささをむきだしにして破顔一笑したりしたものだ。しかし彼は笑はなかつた。わたしもまたあまり笑はなかったから、笑ひを失つたやうな彼の顔のことはよく判つた。ある同質の内攻性をすぐに感得できたのだ。だが彼には裏といふものがなく隠すといふことがなかつた。(「回想の難波田史男」)
 
 毎年、笑わない学生はかならず存在する。教師には実にけむたい存在だ。こちらが緊張をほぐすような冗談を言っても、表情を変えることさえしないのだ。しかしかならずしも一切のコミュニケーションを拒んでいるわけではない。文章を書かせるとかなり率直なことを書いてきたりする。
 わたしはそのような学生のことをずっと小憎らしいと感じていた。だがしだいに、笑わない学生は幸福な存在だと思うようになった。彼らは笑わないでも生きてこれる環境に恵まれていたのだ。わたしは他者とともにいて微笑む。笑う。ときに大笑する。それはそうしないと生きてこれなかったからだ。笑いを見せることによって、「自分は無害な存在である」ということを相手に示さないと生きづらくなってしまう環境に生まれ育ったからだ。もし笑わないでも十分に庇護されて不安なく生きられるなら、それはなんと豊かな静かさだろう。
 難波田史男の書き残した日記やノートを読むと、基本的には彼が東京の文化的・経済的に豊かな家に生まれ育った素直な青年であることがよくわかる。彼は父母兄弟ときちんとコミュニケーションをとり、スポーツに没頭し、十分な時間と資金とを読書と旅行に費やせる青年だった。無理に笑う必要はなかったし、自分の内面を隠す必要もなかった。ほとんど「引きこもり」に近い生活も許された。史男は言語的なコミュニケーションに難があるから絵画表現に向かったのではない。28歳のときのノートにはこう書かれている。
 
 ぼくが書物を読むのには二つの理由がある。一つは、絵を描きあげる(百号、十枚ぐらいの分量かデッサン五十枚ぐらいの分量)と、ひつように活字に、うえるから。それは、言葉による世界に帰りたいからなのだ。もう一つの理由は、絵をつくるための創意とインスピレーションを書物が与えてくれるからなのだ。(『終着駅は銀河ステーション』463頁)
 
 いかに史男の作品が言詮を絶するように見えても、それは言語的な世界と隣り合っている。多くの文学・思想から発想の種子をもらい受け、無意識に沈潜する制作のあとには言葉による分節化された世界に帰っていった。史男の作品を、なんとなく先入観で、無口で言語表現の下手な青年の自己表出と捉えがちだが(かつてはわたしはそんなふうに思っていた)、それは正しくない。彼は言語と非言語とのふたつの沃野を行き来することのできた恵まれた芸術家だったのだ。
 
 
7
 難波田史男は1974年の1月、兄と旅行中、フェリーから瀬戸内海へ転落して消息不明となった。3月に遺体が収容され、死亡が確認されたと年譜にある。享年32だった。
 自殺を裏づける証拠はなく、個展やグループ展も計画されていたという。とすれば彼は不慮の事故でとつぜんに人生が中断されたということになる。であるならば、ある時期の作風に「晩年」という言葉は使うことができない。
 非常におおまかな言い方なのだが、インクと水彩で描かれた作品群は、71年ごろから明快な輪郭線を失ってゆき、彩色も色彩どうしが浸食しあうような、にじみを活用したものに変わっていく。やさしさと諦念と夢想がまじりあったようなそれらの作品群はわたしに「大洪水のあと」というイメージを想起させる。いうまでもなくランボー『イリュミナシオン』冒頭の作品のタイトルだが――史男はノートに「永遠」や「夜明け」を書き抜いているから、当然ランボーの詩集を読んでいた――ランボーの作品とは直接の関係なく、世界の破壊と再生――災厄が去ったあとの「おわり」と「はじまり」が同居しているような印象を与える作品群なのである。それは時間的な系列のなかで見てゆくとき、どうしても「晩年」の様式として捉えたくなってしまう作品群だ。
 史男がこの世から姿を消した74年の作品に、「松明を捧げる少年」というのがある。星や花や家や葡萄のようなものがちりばめられた夢想的な夜の空間を、あざやかな炎を掲げた少年が、大股に横切っていく絵である。
 仏家のことばに、「自灯明、法灯明」というのがある。釈迦が入滅の直前に弟子たちに説いたことばとされる。「みずからをあかりとし、法をあかりとせよ」。わたしは「松明を捧げる少年」を見るたびに、この「自灯明」ということばを思い出す。先に、難波田史男に「代表作」というようなものはないと書いたが、もししいて代表作を挙げよといわれるのならば、「松明を捧げる少年」はそのひとつに入るもののように思われる。
 
 

 窪田般彌先生は2003年に亡くなられた。授業中に余談として「ナンバタくん」について聞いてからもすでに四十年近い歳月が流れた。あのときに余談を聞いていなかったら、その後難波田史男の絵を眺めることもなかっただろうし、いまこうした文章をつづる機会にも恵まれなかっただろう。わたしは仏文学専攻ではなく、窪田先生とはあわあわとした交流しかなかったが、これもまたひとつの学恩であるといまになって痛感し、感謝するのみである。
 
 
*今回、主として以下を参考にしました。
 
『夭折の画家  難波田史男展――海と太陽の詩』西武美術館・リブロポート編、1981年
(昭和56年に西武美術館で行われた展覧会のカタログ。図版172点。巻末に略年譜、展覧会一覧、文献目録、出品リスト。針生一郎、飯島耕一、武満徹、村上善男、宝木範義、千葉成夫、難波田澄江の文章を冒頭に載せる)。
 
『終着駅は銀河ステーション』幻戯書房、2008年
(1958年から1968年までに書かれた難波田史男の未発表の日記、ノート、スケッチブックなどから文章その他を年代順に抜粋し、註をつけて構成している。難波田武夫「残されたノート」、略年譜および関連略年譜、読書と映画鑑賞関連目録が巻末に掲載)。
 
『難波田史男の15年』東京オペラシティアートギャラリー展覧会資料第50号、福士理編、2012年
(2012年に東京オペラシティアートギャラリーで行われた展覧会のカタログ。図版245点。巻末に福士理の解説「イメージの円環運動:難波田史男のための走り書き」、略年譜、展覧会歴、文献、出品リストを載せる)。
 
『難波田史男の世界――イメージの冒険』世田谷美術館コレクション選集、2014年
(2014~2015年に世田谷美術館で開催された展覧会のカタログ。図版257点。「論考・資料」として、酒井忠康、清水真砂、杉山悦子の文章、難波田史男「青春の思索」(再録)、写真アルバム、略年譜、個展歴、主要文献、出品作品目録が載せられている)。

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