陋室の蛹―芍薬群蝶図


           河津聖恵

絹地に金泥を塗り込めるにつれ
色は心身を少しずつ脱落する
あるいは心身が色から脱けていく
絵師の命は
ゆたかな冬木のように初夏の花々の色を尽くしていくのだ
絵筆を止めた背にわずかに現れる不可視の
庭の葉あいは濃くなったり明るんだり
木々は暗い死を含みざわめいたり
下闇がふいに漆黒の揚羽を放ったり
そのたびに壊れそうなしずくめいた小さなは
世界の変移を映し込み
微風にともぶれする
だが描くことに酔いしれている絵師は
すでに蛹となっていることに気づかない
錦街陋室の宇宙は少しずつ澄みはじめる

すでに午後
二百五十年前の たったひとつの昼が暮れていく
縁先から時の柔らかな影が
部屋深くに饐えてしのびよると
羽は死の気配を感じにわかに動きをはやめる
知ってか知らずか絵師は額に汗をわずかに滲ませ
灰がかった瞳をほそめた
身をこごめるすがたはとうに人を離れ さらに蛹
筆先を見つめる眉間にはもう
鮮やかな花々がうたうようにひらき始める
ほそいほそい筆の命毛に
蝶たちが遙かからか吹き寄せられ蒐まり出す

やがて筆が止まり
紅と白のたたかいが終わる
いまこの世の下方で濃淡を咲き乱れる芍薬
獰猛なほど官能的なその吐息
蕾たちの命のうずき
花を凝視しつづけた絵師のまなざしに花は匂う
そこに奪われるように誘われて
ひとひらまたひとひら
いつしか十全に盈ちた虚空から蝶たちは雪片のように力なく身を投げていく
運命の酷薄な手でびんと展翅されたすがたで
飛ぶ、蜚ぶ、止ぶ
やがて羽ある非在のものたちは
下方にひしめく花々の極楽のエネルギーに身を任せて落ちていく

薄闇に満たされた陋室にもう誰もいない
色という色を透脱した絵師はしずくとなって消え
絵の表だけがうっすら水めいて光っている
紅白の芍薬たちが
全てが終わった事後の暗い空白を
鮮やかに愛しはじめている
金泥のこの薄闇がもはや明けることがなくとも
花々はどこまでも生きつづけ華やごうというのだ
もはや一輪二輪
みずからを描き足してしまうほど花は自由だ
蝶たちの投身が絶えないのは女帝である花々に
飛び方を忘れ果てることを許されたから
絵の時空に二百五十年年はあっという間に過ぎる
時間は空間の心臓を連れ去っていく
かすかに羽化したまま透明となった絵師のまなざしが
まだどこかでふるえている気配がする
小さな不可視のは
飛べたのか 失墜したか
蝶の虚空へ それとも花々の地獄へ

秘密を塗り込めて黙り込む金泥地に
ひとひらの焔の影がよぎる
主の消えた事後の陋室は閉ざされている
きらめく死の光だけがそこに
主なき筆先をうごめかせ描きつづける
破壊 生誕 あるいはそれらの永遠の揺籃を

powered by crayon(クレヨン)