女の顔、顔の女

        宮尾節子

視線にも帰り道があるのだろう。電車の中で、何気なく目をやる吊り広告や派手なポスターが、いくら目を引くように挑発的に描かれていたとしても。どこかで視線を元にもどす帰り道は用意されている、ような気がする。

ところが、彼女は違った。この女に帰り道はなかった。黄色と橙のだんだら髪の。白い顔の。黒い手の。 汚れた頰の。藪睨みの眼の。不吉で邪悪で。それなのに光り輝いて。圧倒的にナイス!な。この女の絵、 この女の顔を目にしたとき。わたしは金縛りにあったように、電車の中で、その帰り道を失っていた。 「わたしは、何を見てるんだ」という戸惑いのなかで「視線を帰さないぞ」という強い磁力に捕まっていた。見慣れたものが、見慣れないものに変わっていく。そこには何かあるべきはずのものがなく、そこには何かないはずのものがあらわれている。 神聖さと邪悪さを取り混ぜたような女の顔は、聖母のようにも見え魔女のようにも見えた。美しいのに不穏なのだ。その落ち着かなさのなかで、わたしはどうやら―― 恋に落ちた。

いい人だなあ、やさしい人だなあ、きれいな人だなあ、と人は人に感心しても。案外、それはそれきりで終わる。なぜか、収まりのいい感情は円を閉じるように、おとなしく関係の縁も閉じる。ところが、なんて人だ、ひどい人だなあ、おかしな人だなあ、と人は人に驚いたり困ったりすると。仲々、それはそれきりで終わらない。はみ出た感情が円を閉じないゆえに、関係も縁を開いたままになる。修復しようとその隙間に足を踏み入れ、恋の泥沼に落ちたりもする 。いい人のどこが悪いのだろう、とよく思うが。反対 に、どこがいいのかと思っても、 あんな奴がモテる理由もそんなところかもしれない。日常の文脈では収まらないもの、終わらないものに、心は残り。終わらないところから、始まるのだ。始まりは「あなた、誰?」「いったい、何?」そのような日常の破綻へ――恋も芸術もドヤ顔でやってくる。

光源を見据える黒い瞳は、照り返す白い光を宿し、眼差しには強い意志が漲っている。いちばんの違和感は白い手首から伸びている黒い手の甲。なんだ、これは。なんで?
ここでの齟齬を均そうと、わたしの目は何度も何度も絵の中を行ったり来たりする
ハレーションだろうか(でも、白ならばまだしもそれが黒いか)
手袋だろうか(でも、爪の先も指の腹も覗いている)
心霊写真によく出てくる、肩に載せられた誰にもつながってない 幽霊の手めく。
よく見れば、顔の向きもかなり、おかしい。
女は正面を向いて座っているのか (だったら、置いた手があり得ない位置だ)
あちら向きに座って 、こちらを振り返っているのか (こんなに真正面に、くるりと首が回るわけがない。
映画『エクソシスト』で首を一回転させた少女、リンダ・ブレアが蘇る)
いろんな不整合に気づく前には、「黒いセーターを着た金髪のいい女」と
ざっくりした印象で目に飛び込んできた、そのセーター部分の黒い色も
いや椅子の背もたれか、いやいや見れば見るほど、雲行きが怪しくなり、得体が知れなくなる。
なんだか、手に負えない厄介なものに捕まったのかもしれない。
ただ。
彼女の口元にわずかに浮かぶ微笑みの兆しに――
最後に
救われている。
絵も、わたしも。

マルレーネ・デュマス 。それが、日本初の「マルレーネ・デュマス  ブロークン・ホワイト 2007年04月14日(土)〜07月01日(日)」東京都現代美術館で開催された、彼女の展覧会のポスターとわたしとの、 電車の中での出会いだった。

一目惚れの勢いで、さっそく展覧会に駆けつけた。彼女をもっと知りたい。できたら、手に入れたい(もちろん、ポスターを)思いひとつに動かされた。しかし、会場に足を踏み入れて、 ちょっと後悔した。やっぱり彼女は優しくは、いや生易しくはなかったのだ。以前ネットサーフィン(もう死語かな)していて、何を検索ワードにしたのか忘れたが、飛び込んだのは事件現場の惨たらしい遺体写真の並ぶサイト。 怖いもの見たさとはいえ、数枚見て逃げ出した。それを思い出す、ひと口で言えば、エログロ猟奇。まあ、そんな感じだった。青黒い裸でながながと横たわる顔のない死体や、首を吊る少女、恨めしい表情で こちらを睨みつけて居並ぶ顔や崩れた顔の群れ。まるで殺人事件の証拠写真のような、グロテスクでおどろおどろしい暗く重い絵ばかりで、ホラー映画が苦手なわたしは参ったな、見たくないなというのが正直な感想だった。「共苦」を掲げるにしても、趣味が悪過ぎないか。それなのに、このクオリティの異常な高さはなんだ――と驚嘆しつつも。美術史的なものには一切興味がないわたしは、あのポスターの女だけを目指した。そして見つけた。展覧会でもこの金髪女の絵がいちばん明るかったように思う。

解説によるとデュマスは最初、この日本初の展覧会のポスターには、ヒキガエルの絵を使うつもりだったらしい。ぶらさがったヒキガエルの股のあいだに「Art」という文字と排泄物が垂れている絵(「芸術はヒキガエルの織りなす物語である/Art Is Stories Told By Toads,1988」)だ。それを詳しい経緯はわからないが、この金髪女の絵にと変更したようだ。大正解だ。よかった!もし電車のなかで、股を開いたヒキガエルがぶらさがっている絵なんか目にしていたら、ぜったい展覧会には行かなかった。行くもんかである。 (*ところが、このヒキガエルを正視することこそ、いやおまけにキスまで厭わないものこそが真に彼女の絵を理解できるものだったのだと、後に知る。)

「これください」とこの女の顔のポスターと、この展覧会のための画集『マルレーネ・デュマス ブロークン・ホワイト』(ブロークン!ホワイト、白を撃ち砕け!かと思ったら。真っ白ではない色、オフ・ホワイトのことらしい。まあ何ごとにつけ、喧嘩売ってるような。あるいは喧嘩買って、ズタズタになるのをよしとするのがこの画家の特徴のようだ)を買って、さっさと家に帰ってきた。それから彼女を額に入れて、いろんな場所に置いてみたが結局は、寝室に落ち着いた。今は、朝な夕な彼女とともにある。まだ、いろんな納得いかない問題を孕んだままのこの絵を、毎日見るのはしんどいかなと思ったが、そんなことはなかった。眺めだすと飽きることなく見入ってしまう。うーーん。さすが、芸術の底力である。

そんな感じでベッドを共にする、「女の顔」とだけはかなり親しくなったマルレーネ・デュマスである。それから、幾歳月――画集も買ったままでめくることもなかった。

今回、ここに絵について書かせてもらうことになって、いくら何でもポスター一枚の感想だけでは、あんまりなので。もう一度彼女に出会い直そうと本棚で忘れかけていた画集『Marlene Dumas BROKEN WHITE マルレーネ・デュマス ブロークン・ホワイト』(淡交社)を開いた。そして、またしても新たなデュマスと出会うことになった。今回は、「デュマスの言葉」との出会いだ。ことばが、いいのだ。作品につけられた短い解説が詩になっている。毒を一服盛りながらも、言葉は詩の飛距離を見せている。というかよく読めば、画集の扉にはっきりと、「自作に寄せた詩やテキスト、インタビューなど、珠玉の言葉とともに、デュマスの全貌を伝える。」とあるではないか。彼女は巧みな言葉使いの、詩人でもあったのだ!いくつか、画集から、作品に添えられた彼女の「言葉」を拾ってみる。

誤解としての美術作品

表現は危機に瀕している
ひとは意味を求める、それが物であるかのように
それが少女であり、パンティを脱がす必要があるかのように
真の解釈者が現れさえすれば少女も
それを望むかのように
脱ぐものが何かあるかのように
             
      ――キス/The Kiss, 2003

うつ伏せて床(地面?)に口づける白い横顔の絵にはこんなフレーズが添えられている。芸術作品に意味を求める輩への、痛烈なジャブだ。(*とはいえ「モデルたちは待っている。画家たちが彼らに意味を与えるのを」という言葉もほかの場所でのデュマスの言葉であることも覚えておこう。)「キス」はどうやら「絵画を恋愛中の状態にする」というデュマスの作品全体に通底するテーマでもあるようだ。解釈じゃない、まずはキスを、ということだろう。 次のデュマスの言葉には、そのキスに込められた、延いては芸術に込められた、彼女の思いが言及されている。

媒介者としてのアーティスト

現代人はアーティストの人格を強調しすぎる
原始社会では物語はけっして一個人ではなく
媒介者、シャーマンによって語られ、賞賛されるとすれば
それは「語り」であり、個人の「非凡な才」ではなかった。

アーティストは個を超えた存在だと語り始めて、以下にと展開する。

魔法が信じられていた時代、神話やお伽話の時代には、神々は
あらゆる姿をとって現れ、正反対の性格を一身に表すことができた。
ひとは狼男になることができ運さえよければ、
カエルも王子に変身することができた。ただ愛のみが
邪悪な呪いを解くことができる。ただ愛するひとの肌と触れ合うことのみが
野獣を美女に、物質を視覚に変えられる。
絵画も、カエルにキスが必要なように
秘密を明かすには、愛する人を必要とする。

そして当初、日本初の展覧会のポスターに使おうとしたヒキガエルの絵に、この言葉が添えられているのである!

そうか。

愛だ。
愛が求められ、愛が試されているのだ。

わたしは、眉を顰め足早に通り過ぎた、展覧会の数々のグロテスクで不吉な絵、そして、なおかつ強く誘惑してくる、デュマスの官能的な絵画の謎を、醜いヒキガエルに添えられたこれらの「言葉に、よって」解き明かせた、と思った。

――芸術とはヒキガエルの織りなす物語である/Art Is Stories Told By Toads,1988

彼女の絵画のヒントになる言葉を、画集からランダムに抜粋してみよう(ここではデュマスの言葉を辿りたいので、 言葉とその題のみで、添えられた作品については省略する)。

「わたしは拗ねていない。わたしはひとの傷つきやすさに心を動かされる。/わたしはよく笑う。/わたしの口は 空気に触れる必要のある/小さな桃色の傷口。」――「夜行動物の眼」

「黑と白が人種でなく色であっても/人びとはやはり恋に落ちるだろう/そして恋人同士の間に差別をもちこみ /寂しく思い、後悔するだろう。/そして心を激しくゆさぶり/苦痛が美となるところへ/誘ってくれる芸術に焦がれるだろう。」――「次世代」

「死体に魅力を感じたり、血糊を見て興奮することはない。三島はそうだった。死と血にまつわる性的幻想、そしてそれを尊ぶ信条を文章に表し、1970年に切腹した。子を産んで哀しみの新たな世界にはいったことを悟った聖母マリアのほうが、わたしにはより身近に感じられる。」――「少年の部屋」

「わたしたちのために、わたしたちによって殺された人びと、死者にこれを捧げる。/今、息を引き取ろうとしている人びとに。/起こりつつある「出来事」に。/今も続く占領。/軍事的解決の無節操な賛美。/言葉づかいが婉曲になる、一方で、/姿勢は硬直化し、憎しみは募る。/負担(ロード)を軽くする発明(インベンション)で はなく/道路(ロード)を消す口実の捏造(インベンション)//レインボー作戦、不滅の自由作戦、/サマーレイン作戦......どれも優しげで、はにかみを感じさせるのは広島に投下した爆弾を「リトル・ボーイ」と呼んだのと 同じ。」――「フォッグ・オブ・ウォー」

彼女は、唇を空気に触れる必要のある「桃色の傷口」と呼び、苦痛が美へと昇華する「芸術」の骨頂を語り、性的幻想にのめりこみ身を滅ぼした三島より、子を産んで新たなかなしみの世界を引き受けた聖母マリアのほうが、まだましだ(とは言わないが、このようにマリアを卑近に、身の丈に引き寄せて語ったひとを他に、わたしはまだ知らない。)と説き、そして。「フォッグ・オブ・ウォー」婉曲な言葉の霧に隠れた(ああ、詩では高貴な比喩が、ここでは武器の迷彩(カモフラージュ)にと堕落して賛戦している、詩が参戦しているのだ!)戦争の犠牲者、殺された人びと(わたしたちのために、わたしたちによって)、死者たちに、作品を捧げると――デュマスは伝える。

「フォッグ・オブ・ウォー」はモノクロの髑髏の絵、「(ある女の)骸骨/Skull(of a woman)2005」に添えられた文章である。「The fog of war. 戦争の霧」を、その戦争の前ぶれとして立ち込める霧をわたしは「言葉の霧」として確かに実感していた。例えば、戦争が戦争という言葉ではなく、平和という言葉によって始まることを。戦争法案だと批判され反対の声が相次いだ法案が可決するときも、平和・安全・保障と不安を霧消させる言葉が総動員されたことを忘れない。霧の言葉として、「負担を軽くする発明ではなく/道路を消す口実の捏造」とデュマスが言う時、「直喩ではなく暗喩」もはやその存在の仄めかしすら積極的に消してしまった、高度な比喩の詩を思い重ねずには いられなかった。もしかしたら、似た者同士ではないのか。ほんとうに核心にと深まっているのか、ほんとうは遠ざかっているのではないのか。詩は真実から――。あるいは、責任から......

 きれいな仕事
 
 愛ということばを
 使わずに
 愛をかたるのが仕事の
 わたしたちと
 
 戦争ということばを
 使わずに
 戦争をするのが仕事の
 あのひとたちが

 ときどき、ことばの仕事が
 そっくりなので
 びっくり、してしまうのです
 がっかり、してしまうのです
 
 お花畑と 
 戦場が
 
 気がついたら、花を摘んでる
 つもりが
 それは、人の命だよ
 と――

 そしたら、また
 死ということばを、使わずに
 わたしたち、おなじ
 きれいな
 お仕事するのでしょうね

 後の祭りを
 片付けるために
  
  ー宮尾節子『女に聞け』より

拙いながら、そのような思いで書いた詩が「きれいな仕事」だった。

さて。日常空間の壁に掛かる「金髪女」の絵を、毎日目にしているうちに、いろいろ新たに気付くこともあった。 暗がりに目が慣れてくるとだんだん、周りがよく見えてくるようになる。非日常に棚上げ(お手上げかもしれないが)した部分を、同じく日常の目が捉えはじめたのかもしれない。女の顔の中に、もうひとつ顔が浮かび上がってきた。白い顔の中に、やはりわずかに口元を微笑ませた、黑い顔の女がもうひとりいるようなのだ。白人の中に黑人が混ざりこんでいる!それを認めると、手の甲の黑さやその手が引き寄せた不可解な黑い部分も妙に馴染んでくる。白の支配下に取り込まれた黑――それは、画家の出生の背景へとオーバーラップしてゆくことになる。

1953年。マルレーネ・デュマスはアパルトヘイト下の南アフリカ共和国の、ケープタウン郊外でぶどう園を営む両親のもとに生まれている。彼女の絵にひんぱんに黑人が出てくるのは、人種隔離政策という不自然な政治的状況下ではあったが、自然なことだった。

――人種隔離政策の下にあった南アフリカのケープタウンで育った生い立ちについて、少しお話していただけますか。

デュマス:奇妙で、不幸せな、そして悲惨な状況でした。自分と異なる人種の人びととつねに触れ合っているのに、差別は非常に明確で、たとえば街中に「白人専用」、あるいは「非白人専用」というような標識が掲げてあるのです。 異なる人種がふだんからひとつの場所で働いているのですが、たとえ友だちであっても同じレストランに行ったり、 一緒に寝ることはできません。つまり人種の異なる人間同士で付き合っていると、とても奇妙な感じを抱くことになります。白人が特権を独り占めしているわけですからね。黑人女性は白人の子どもたちの世話をします。実の母親よりよく面倒をみることだって珍しくありません。ですから、限られた、他人の目のないところでは、とても親密になれるけれども、それ以外では完全に隔離されてしまう。これもアパルトヘイトが、そこに暮らす人間にもたらす精神分裂症的な影響のひとつでしょうね。

インタビュー(聞き手:⻑谷川祐子)で、デュマスは生まれ育ったケープタウンでの暮らしを「精神分裂症的」と 感情に距離をとって観察的に表現する。限られた場所では親密な存在を、それ以外の場所では排除するという理不尽で「奇妙な感じ」の暮らしは、人間の個の顔と集団の顔の分裂を日々、目の当たりにさせる。そういう場所で彼女は育ったのだ。

黑人の顔をたくさんタイルのようにならべた「ブラック・ドローイング」という作品群についての、人びとの反応 をデュマスは「欧米人は口をそろえて『あのひとは南ア出身なんだってね。あれは彼女の生まれ育った国、彼女の問題だよ』と言ったものです。」と伝えながら、こう釘を刺す「彼らはそれが自分自身の問題でもあることを忘れています。わたしの作品の大半は個人の問題、個人が集団になったときに起こる問題をあつかっています」。 生まれた場所のせいだ、生まれた時代のせいだとまるで他人事で片付けようとする人々に、「否。あなた自身の問題だ、あなたという個人が集団になったとき、どれほど理不尽で残虐になれるか。」それを見せているのだと知らせ、 自覚を促すのだ。しかし、デュマスは更にこのようにも続けている。

「南アのアパルトヘイトにおける抑圧と差別は、人間が人間に対して残虐な行為をおこなっているという事実、そしてある種の社会、政治体制にまつわる不正、愚劣さ、恐怖に、人びとの目を開かせました。」アパルトヘイトという恐怖の政策、愚かな人間たちの作り上げた異常な作品が!皮肉にも人びとの目を見開かせたのだと――告げる。 わたしは、デュマスの作品の本当の「怖さ」を理解しはじめた。絵が怖いんじゃない、わたしが怖い、わたしたち自身が怖いんだと――。そこまで堕落しなければ決してわからない、わたしたち自身を見せているのだ。


驚いたことに、デュマスの作品にはほとんど生のモデルがいない。新聞や雑誌の切り抜き(漫画に到るまで)、名画からの借用、報道写真や広告写真、写真家の作品(画集の表紙の絵「ブロークン・ホワイト」は荒木経惟の写真を元に描かれている)から、家族のポートレートと、ありとあらゆる表現を蒐集した彼女の膨大なコレクションの中から、そのときの主題を「監督が役柄に合わせて俳優を選ぶように」選び、まったく新しい彼女の作品を創り出す。 原作を下敷きにして彼女独自のインスピレーションやイマジネーション(アーティストは媒介者だと、上で言っているところの)の力で自分のものにする。いわば二次創作的な制作方法だ。デュマスの作品はどれも既視感やノスタルジックなイメージを纏っているのもそのせいだろうか。

さらに、もうひとつ魔法をかけるように、使われるのが言葉だ。作品に付けられたタイトルにしろ添えられたテキストにしろ、なかなかの曲者だ。言葉を使って絵画の奥行きや、飛距離をぐっと延ばすテクニックを心得ている。 薬よりも効果的な毒の調合を知り尽くした、言葉の達人でもある。もうひとつ、例のヒキガエルについてのデュマスのインタビューのことばを拾ってみよう。

「カエルを描いた絵《芸術とはヒキガエルの織りなす物語である》(*上図参照)がとても気に入ってらっしゃるよ うですね。最初は日本展の表題になさろうとしたぐらいですから。その理由を教えていただけますか。」カエルの絵 について、デュマスはこのように答えている。「想像力の大切さを示したかったからです。」「カエルが好きなのは、 良く知られた童話で、お姫様にキスされると王子に変身しますね、そこが好きなんです。これは普遍的なテーマで、 聖書から映画まで、なんにでも登場します。物事は目に見えるままではない、ということですね。」

また、他の場所では「⺠話の多くにみられる暴力性や官能性に親近感を覚えます。お伽話にも月の満ち欠けや、女が狐になる変身譚にみられるように、そうした特質がありますね。お伽話をそのまま題材にした絵は描いていませんが、変身、変容の感覚を描くことはありますね。」――ヒキガエル、暴力性、官能性、お伽話、変身譚、そして、

わたしが探しているのは
堕落した女でも、妖婦でもない
求めているのはあどけない女でも
逞しい女でもない。そうしたすべてが
混じり合ってできあがる
ほんとうの雑種。

ーーアンダーグラウンド/Underground, 1994-95

すべて混じり合ってできあがる「ほんとうの雑種」。統合、そういうことか。白人の顔のなかに黑人の顔が混ざりこ んでいる。よく見れば、もうひとり瞳の白濁した老婆までわたしには、混ざり込んで視えてきはじめた。その老婆とは、セレスティーナ。左目の潰れた老婆、⻘の時代のピカソの描く強欲な売春宿の女主人だ。いけない。

そろそろ、不慣れな絵画評からわたしは退散せねばならないだろう。書きすぎた。なぜならば、 わたしの恋する金髪女は最後にあの人にまで変身し始めたのだ――なんてことだろう。 なぜ、気がつかなかったのだろう。わたしは今まで......。

こんなに惹かれる女の正体を!この女の絵のタイトルを、わたしは今まで見なかったのか。それとも、忘れ去っていたのか。あるいは日本語訳の「邪」が文字通り、邪魔をしていたのか。わたしが今回取り上げ、つらつら書いてきたデュマスの冒頭の絵には、なんと「邪悪は凡庸である/The Banality of Evil, 1984」と題がある、ではないか。

悪は凡庸である。ハンナだ!
「The banality of evil./悪の凡庸さ」とは、ナチス政権下のドイツで、ユダヤ人絶滅収容所にユダヤ人を送り込む指揮をとったナチスドイツの役人、アイヒマンの裁判記録『イエルサレムのアイヒマン』で悪を総括した、ハンナ・ アーレントの言葉だ。

世界最大の悪は、ごく平凡な人間が行う悪です。
そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。
人間であることを拒絶した者なのです。
そして、この現象を、私は「悪の凡庸さ」と名付けました。
       ――ハンナ・アーレント

わたしの無意識は、電車の中でこの絵を見たときから他の誰でもなく、「ハンナ・アーレント」の眼差しを、この女に見出していたのだ。わたしのなかの、金髪女の正体、それはハンナ・アーレントだった!
ここまで、⻑々と書いてきて、今日、今このときそれを知った。

河津さん、ありがとう!

最後に、わたしに見えてきた危ない絵をちょっとした悪戯でここに再現します。
ご笑覧ください――宮尾プレゼンツです。(笑)

なんと、右の目がぴったりと重なったのが驚きでした。

**

以下は、余談と宣伝になるのをご勘弁願いたい。

昨年。クラウドファンディングなるものに挑戦して詩集を発行することになった。
表紙は宮尾さんの写真使いませんかと、出版社の方に言われた。アイドルじゃあるまいし、わたしの写真を出してどうすると戸惑ったが。今回は多くの方々に、ご支援をいただいて出版できた詩集でもある。お礼のご挨拶兼ねての 、写真入りもありだろうかとも思い直した。それならと、自分の写真とこのデュマスの絵をイメージとして送っておいた。そして、できあがったのが、今回の『女に聞け』の表紙の顔である。うーん。どうでしょうか。ちょっと怖い顔になりました。似てると言われるたびに、複雑な胸中です。ただこの度、思いもよらぬ新型コロナウイルスの感染が世界に蔓延するという、未曾有の災厄に見舞われることになった。この表紙の絵(切り絵だが)が疫病除けの「アマビエ」という珍獣にも似ているとかで「アマビエ風味」とも呼ばれたりしている。多少でも魔除け厄除けコロナ除けになれば、幸いです。『女に聞け』(響文社)宮尾渾身の一冊です。よろしくお願いします。

最後の手前味噌のおまけまでの「女の顔」シリーズとなりましたが、以上をもちまして 、とりとめなくとてつもなく長く拙い絵の話を終了させて頂きます。お付き合い本当にありがとうございました!宮尾拝

*デュマスの写真・文章 は『マルレーネ・デュマス ブロークン・ ホワイト』(淡交社)より
*ハンナ・アーレントの写真 は『ハンナ・アーレント入門/杉浦敏子』(藤原書店)表紙より

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