空白の燦ー月夜芭蕉図

        
             河津聖恵

書院が築かれてから長いあいだ
襖は空白のままだった
春の花や夏の緑光や秋の紅葉が空気に滲んでも
空白は汚されることなく
しかしやがて無垢は不安となった
何者もふれえぬ白の不安は生き生きと拡がり 
襖を開いても開いても僧は閉ざされ
ついに現世の庭に出ることは不可能になった

絵師を呼んだのは
閉じこめられていた僧だったか
あるいは迷宮の奥で生死不明の僧ではなく
暗闇で仄かに発光する空白そのものか
ひっそりとだが息もつかせず絵師は描いた
太古の洞窟の壁に呼ばれて誰かが
そこに幻視の光景を刻んだように



 三百年後のガラスの向こうの暗い襖のまえに
 古い空気が濃く身を屈める
 誰もいない美術館の真空に吸い込まれ
 私の時間は三百年前の「その時」へ消えかける



空白の不安を鎮める空白を
描かなくてはならなかった
空白を超える空白を捉えなくてはならなかった
あるいは書院の気高い孤独と向き合う孤独を
矛盾を描きうるのは
矛盾に鋭く惹きつけられる者だけだ
絵師の灰がかったまなこの奥で
不思議な光がくだかれ雪のように降りだした
目に映る事物の血を抜き
いのちを凍らせては別の世に鮮やかに蘇らせる
絵師だけの愛がうごきだした



淡く淡く 時に濃く
筆はすべり芭蕉たちは描かれる
筆のうごきとともに
墨の濃淡に葉々のざわめきが立ち現れる
陰鬱なバナナのような姿は絵師好みだったろう
大きな葉の脈をためらわず刷く
荒々しさからそれと分かる
芭蕉の葉の破れやすさから目をそむける人と
破れたありさまに勇敢な武士の生傷を見る人とに
二分されていた時代
最初の目撃者には聴こえただろうか
一人描く絵師の筆が空白の中で共鳴した
けものめいた夜の芭蕉のざわめきが

淡く濃く荒々しくざわめきは描かれた
だが葉々の気配がさらにうごめき
いのちの艶めきをおびるためには
描きのこした空白が
空白のまま盈ちなくてはならないと絵師は考えた
ふいに突き出た葉の下にあたりをつけた
そこが空白の急所だった
筆に水気をたっぷりふくませてから
途切れなく一つの円を隈取っていく
子供の眼に映るごとく闇との境が煌めき滲むように
筆の力を巧みに抜きながら

幼い頃の澄んだ夜空に
円が冷たく煌めきかがやいていく
あの空白の中の空白の中の空白
月ーー
だがあと三分の一というところで葉を踏まず
筆はしんと止まる
絵師の月は盈月になり切ることを拒むらしい
(大成は欠けたるが若く、其の用弊(やぶ)れず。
 大盈は冲しきが若く、其の用窮まらず。)
盈たされないことで
空白は非在の月光へ転じる
何百年経とうと今ふたたびというゆたかな身じろぎで
芭蕉は照らし出される
絵師のあらたな命が
見つめる者へ向かって濃く淡く生々しく燦く

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